在宅ケア

  • 2019.05.10 Friday
  • 15:38

 

 翌日から私は在宅診療をしている病院を探し始めた。イギリスに行く前に、インターネットなどですでに目星はつけていたが、家で看取ることができるのかという不安が迷いとなり、また、もしかしたら回復してテレビで見るような何万人に一人の奇跡が起こるかもしれないというかすかな期待が混在し、行動に移せないでいた。「本当に父は死んでしまうのか?もしかしたらこの状況を越えれば回復をするのではないだろうか?」目の前に、痩せ衰えていく父を見ながらも、いつも定まりきらない心のまま、それでも在宅ケアの準備を始めなければならなかった。

 

 庭掃除をしている母に在宅ケアのことを相談した。母はあまり気乗りしていないようだった。眉をひそめながら、お願いするならS医院がいいと言う。S医院の先生は前から私と弟と母に話しておかねばいけないことがあると言っていた。じゃあ一度S医院の医師と話しをしてみよう、と私は母にお願いしてその日の夕方にS医院に予約を入れた。

 

 S医院に着き診察室入ると、医師はにこやかに私を迎え、往診をお願いできるかと聞く私の相談に親身になってのってくれた。医師はこう言った。「私も病院に勤務しているときは人が死ぬ時期が分かったけれど、病院から離れて思うことは、人はいつ死ぬか分からないってことなの。余命3ヶ月と言われた人が、一年生きることもあるの」。予想外の発言に違和感を覚えながらも、私は父を家でできる限り看たいということと、その場合、S医院でお世話になることができるかどうか聞いた。私はS医院の医師の「考え」を知りたかったので、予後告知についてどう思うか聞いてみたりした。もしかしたら父がお世話になるかもしれない人だ。どういう考えをもっているのか、信頼できる人なのか、それが知りたかった。S医院の医師の話しは、始終、私の発言に合わせるという感じでおこなわれた。明るい展望すら抱くものでもあった。しかしそれは、何だか違和感を覚えるものでもあったのだ[1]。とりあえず、また後日に相談に来るかもしれないということをお願いして、この日は帰った。

 

 翌日、自宅から車で15分ほどのところにあるS大学付属病院のソーシャルワーカーに相談に行った。この病院がおこなっている在宅診療についてと、父が急に倒れたり何かあったりした場合に受け入れが可能であるか、知りたかったのだ。私の地域には病院はそれほど多くなく、末期癌の患者を受け入れてくれる病院といえば、療養型の病院くらいしかない。ましてや緩和ケア専門の病院などはない。療養型の病院には主に高齢者の方々が入院しているので、そこで適切なケアが受けられるのか心配だった。ソーシャルワーカーの人は丁寧に相談に乗ってくれた。しかし、父がここで在宅診療を受けることはできないことが分かった。来る前からホームページで調べて、私の家がある市は往診・訪問看護の範囲外であることは知っていたが、範囲内に含まれている市よりも距離的には近い。もしからしたら…、と思っていたが、やはり無理だった。救急で運ばれてきた場合には、おそらくS大学付属病院に運ばれるだろうということであったが、その後は、近くの療養型の関連病院に転院される可能性が高いということであった。ソーシャルワーカーの人は、これ以外にも近くの在宅診療をしている病院を紹介してくれたが、どれも私が調べた病院であり、かつ、どれも家から「近い」という距離ではない。私はここの病院の患者でもないのに、時間を割いて相談にのってくれたソーシャルワーカーにお礼を言い、まだ明確な答えが出ない状況に心の置き場が見つからないまま肩家路に着いた。

 

 その翌日、T大学付属病院のN医師とソーシャルワーカーのそれぞれと相談の予約を取っていた。果たして今日で結論が出るのか、何か糸口は見つかるのか、私の心はざわめいていた。ここ数日、父は毎朝熱が出て目覚める。起きてからは、水痰というか、透明なぶくぶくとした唾液のかたまりが吐き気とともに出てくる。食事は、家族がとる時間に合わせて、朝・昼・夜と一緒に食卓を囲むが、食欲は少なめである。一日に1回か2回くらいおかしなことを口にする。夜、一緒にテレビを見ていてニュースを読むアナウンサーを指さしながら「この人は大学を中退したんだよ」と言ったり、朝ご飯だとベッドに呼びに行けば「さっき食べた」と言ったりする。「まだ食べていないでしょ」と確かめるように話すと、はっとした顔をして「僕ちゃん、アルツハイマーになっちゃったみたい」と言う。自分でも何かがおかしいことが分かっているのだ。そのせいか、オキシコンチンを出しても「これ何?」と私たちに問いかけ、「痛み止めだよ」と言っても、そばにあるティッシュの上にのせて飲もうとしないことが何度かあった。こういうとき、私は何と答えたらいいのか分からなかった。父をだましているようで胸が苦しくなった。昨晩、これからどうするか弟と話し合った。母は相変わらず家で看ていくということに消極的であった。弟は私の話を聞いて、いますぐに結論はだせないけれども、正直、家で看取るというところまで想像していなかったという。当たり前だ。私だって想像していなかった。いまだって、本当に父が死んでしまうのか、想像できない。けれども、想像できないという理由で、何も準備しないのは違うと思っていた。父が治るかもしれないという希望はもったまま、でも、万が一に備えておく。明らかに、気持ちと行動が矛盾していた。

 

 T大学付属病院のソーシャルワーカーは、私の話をじっくりと聴いてくれた。私は、家族にもうまく言えない気持ちをつい口にしてしまっていた。私はいまのところ、母が家で看ていくならS医院にお願いしたいというので、S医院の方向で考えていることを話し、混沌とした気持ちを吐き出した後で、ソーシャルワーカーの言葉を借りながらこれからなすべきことを順序立てて整理しなおした。ソーシャルワーカーはK病院にも往診と訪問看護があることを教えてくれた。K病院は、旧自宅に近い総合病院で、そこでは母も弟も入院経験があり、私も何度かお世話になったことのある病院だった。しかし、往診と訪問看護があるなど、聞いたことがなかった。総合病院であることを謳ってはいるが、往診や訪問看護は謳ってはいない。往診や訪問看護を専門的に掲げている病院の方がいいに違いないと思っていた。結局、ソーシャルワーカーの勧めで、K病院と現自宅から歩いて10分程度のA病院が父の受け入れや往診と訪問看護が可能かどうかを確かめてもらい、それからS医院も含めて最終的にどこにお願いするかを決めていこう、という話しになった。

 

 ソーシャルワーカーとの相談の後、N医師とのムンテラをお願いしていた。今日、どうしてもN医師にお願いしなければならないと思っていたことは、月に一度の検診をこの先もしてほしいということと、万が一のときに、T病院にお世話になることも視野に入れておきたい、ということだった。父は、T病院に検診に行って、医師や看護師の前で格好をつけることがひとつの励みになっていると私は感じていた。T病院とのつながりを絶たれることは、父にもう希望はないと宣告するようなものである。だから、どうしても、T病院には細くてもつながっていることが大事だと思っていた。そしてそれは、私にとってもそうだった。万が一があったとき、自宅の近所にある療養病院で父に何をしてやれるのか。まだ見たこともない場所や人に父の最期を看てもらうことはどうしても嫌だったのだ。私はきっと神妙な顔をしていたに違いない。無理なお願いをするのだ。でも、どうしても受け入れてもらわないと困る。N医師が待合室にやって来て、私を診察室に呼んだ。N医師は頼んでおいた診断書など事務書類を処理しながら、さりげなく父のいまの様子を聞き始めた。N医師は人への入り方が非常にうまい人だった。そして、患者の気持ちがなぜこんなによく分かるのかと、私はいつも不思議に思っていた[2]。電話をすれば、どんなときにでも出て、疑問に答えてくれた。

 

 ぶくぶくと出る水痰のようなものは、オキシコンチンの副作用だということがN医師は即座に分かったようだった。N医師は父の様子を丁寧に聞きながら、これからは父を看ている家族が辛くなってくるということを何度も繰り返した。そしてさらりと、「いざとなったらうちに来てもらっても構わないんで、まぁ、保険と思って」と笑いながら言った。もしかしたら、ソーシャルワーカーから聞いていたのかもしれない。私がお願いする前に、私を安心させてくれた。

 

 帰り道、万が一があってもT病院で受け入れてもらえると分かった私は、心の雲がひとつ晴れ、少し身軽になった気持ちで家路に着いた。

 

[1] いま思えば、おそらく末期癌患者の症状に関する生きた言葉による描写がなかったからであろう。現状の父の様子とはかけ離れ過ぎていて、きれいごとのように聞こえたのだ。

[2] 後で知ったことだが、N医師は3年ほど前に母を癌で亡くしていたという。N医師の母も自宅で看取ったということだった。

再び病院へ

  • 2019.05.10 Friday
  • 15:34

 

 私がイギリスへの出張に行く前日、母が「お父さん、最近痛がっているから、今日N先生のところに行ってモルヒネ系もらってこようか?」と言う。確かに、私が不在となると叔母が来てくれることがあるとはいえ、母にくる負担を考え、N医師のところへモルヒネ系の薬をもらいに行くことにした。T病院に電話をし、N医師との外来の予約を取り付け、私は急いで病院に向かった。向かいながら、私は少し迷いがあった。父に無断で新しい薬をもらいに行くのは初めてだった。父にモルヒネ系の薬のことを、どうやって説明したらよいのだろうか。父はN医師には信頼をおいている。父とともに病院に行ってN医師に処方してもらうなら、父も納得するだろうが、大丈夫だろうか。かといって、次の外来予約まではまだ3週間近くある。私は明日からイギリスだ。薬をもらいに行くしかない、と判断した。

 

 もらってきた薬はオキシコンチン。錠剤の薬だ。夕食後、「お父さん、これお薬ね、飲んで」とコンチン1錠と水を渡すと、父は何も聞かずに飲んだ。その日は寝るまで腰に手を当てて痛がるしぐさをしなかった。コンチンが効いたのだと思い、これで父の痛みが緩和されるならやっぱりもらってきてよかったのだと思った。

 

 翌朝、私と母が出発までの時間にししまるとふざけていると、私たちの声に気がついて起きたのか、父が「おい」と話しかけてきた。「お父さん、おはよう、行ってくるね」と私が言うと、「じゃあ小遣いをやらなきゃな、お母さん、財布とって」と父は言った。母が父にお財布を渡すと、父はお札の枚数を数えた。私が隣の居間に戻って荷物の確認をしていると、父は「あれ、お母さん、財布どこにやった?」と言う。「お父さん手に持っているじゃない」と母が言うと、「ああそうか」と言いながら私にお小遣いをくれた。このとき、私は違和感を覚えた。オキシコンチンの副作用だ、と直感した。駅までの車の中で、母にそのことを伝えると「そう?気にしすぎよ、寝ぼけていたんじゃない」と母は言う。私の気にしすぎなのだろうかと思いながら、少し不安を抱えて私はイギリスに向かった。

 

 イギリスには10日間滞在予定だった。行くのを取りやめようと悩んだが、その判断をするには時間が足りなかった。迷っているうちに当日になった。「きっと、大丈夫だろう」と思いながらも、「もし、私がいないうちに死ぬなんてことがあったらどうしよう」と考えていた。毎日、日本へ電話した。1日目は「大丈夫よ」という返事だった。ところがその次の日には「どうしよう、お父さん、おかしくなっちゃったみたい」と連絡があった。「えっ?おかしくなったって、どんな風におかしくなったの?」と私が聞くと、「なんかね、ボケちゃったみたい。まぁ、でも何とか大丈夫だから、景子は自分の仕事がんばって」と言う。「私、帰国予定を早めようか?」と言っても「ううん、大丈夫よ」と母は言った。しかし私は気になって仕方がなかった。

 

 3日目、父が気がかりな私は教授にその旨を話し、自分の判断で帰国の予定を早め、6日間の滞在で帰るように切符を手配した。4日目に電話をすると、母は眠っていたようで叔母が電話に出た。「叔母さん、どう?大丈夫?」と聞くと、「なんかね、久男さんボケちゃったみたいなのよ。入院させた方がいいと思うわ。すーちゃんにも入院の準備させるから、心配しないで」と言う。神妙な声だ。「私がいない間に、お父さん死ぬなんてことないよね?」と聞くと「当たり前でしょ、そんなこと。大丈夫だから、大丈夫。とにかくね、明日病院に電話させるから」と叔母が言った。「私、帰国予定早めたから、私が帰るまで待ってて。入院もできたら待っててね。もしかしたら、これでお父さんと家で会うの、最後になるかもしれないから」と私は頼んだ。父の身に何が起こっているのか分からないことが辛かった。ほんとうに母と叔母の言っている通りなのか?ほんとうに入院する必要があるのか?現状が分からないのに考えても埒があかないと思いながらも、頭から消えることはない。

 

 成田に着くと、私は荷物をクロネコヤマトに預けて成田エクスプレスに飛び乗り、家路を急いだ。タクシー、バス、電車、どれが一番家に早く着くか。渋滞に巻き込まれたら後戻りできない。私は電車を選んだ。家路の途中の乗り換え駅で、15分の待ち時間があったために、私は立ち食い蕎麦屋で山菜おろし蕎麦をかけこんだ。お父さんにどんな顔で会おう?お父さんはどうなっているんだろう?不安な気持ちばかりが頭に浮かぶ。家に到着すると「お父さん、ただいま」とできるだけ元気に言った。父は、ピンクのシャツにベージュのチノパンを履いて、少し不機嫌そうに「行くんだったら、もう行くぞ」と言った。「えー、待ってよ、私、シャワー浴びたいよ。15分、待って」と言うと、「早くしろよ」と言って居間のテーブルの上にあったマンガを読むふりをした。父はイギリスに行く前よりもしっかりしているくらいだった。母や叔母が電話で言っていた様子は微塵も感じられない。「たぶん、病院に行くのが嫌なんだろうな」と私は思った。

 

 病院に向かう車の中で、私はイギリスであったことや、最近のニュースなどを父と弟と議論した。父は得意げに「それはこうなんだよ、ああなんだよ」と話してみせた。母は父の隣で「そうなの?」と聞いていた。いつもの父だった。いや、いつも以上の父だった。母が電話したら、手術を担当してくれたT医師が見てくれると言うので、救急の入口で待っていた。

 

 父はソファに横になって待っていると、入院中にお世話になった医師や研修医たちが父のそばに来て声をかけてくれる。「何だよ、ここにいたら忙しくてしょうがねぇな」と父は言いながらも、医師たちが声をかけてくれることが嬉しそうでもあった。私は少し心配していた。予後告知についての情報が、ちゃんと他の医師たちに伝わっているか。この間の呼吸器外科のようにポロっと言ってしまいはしないか。診察室には家族全員で入った。私は医師の方をじっと見つめ、転移のことについて口にしないかずっと口元を見ていた。採血をして、脱水症状ではないことが分かると、T医師は「まぁ、脱水症状なのかと心配したんですけど、大丈夫なんでね」と言うと、父は「たいしたことないのにお前が連絡するからだ」と母に向かって強く言い放った。母は少し下を見ながら「すいません」と口にした。点滴をしてもらい、私たちは家に帰ることにした。病院から車までの150メートルくらいを、父は右手をズボンのポケットに突っ込んで左手をぶらぶらさせながら、15センチくらいの縁石につまづきながらも歩いて行った。父が癌を患う前は、いつも右手をズボンのポケットに突っ込んで、左手で煙草をふかしながら歩いていた。私はその後ろ姿を見ながら、胸が苦しくてたまらなかった。「父は病院に入院したくないんだ」と確信した。

 

 家に着くと、父はすでに意識が朦朧としていた。車の中でかなり我慢をしていたのだろう。車の中で「横になれば」と言っても横になろうとしなかった。父を抱きかかえるようにしてベッドに連れて行ったが、着ていた服も脱げない状態だ。身体が硬直してしまっている。口と鼻から鼻水やら唾液がこぼれ落ちている。私と母は父のベルトをハサミで切り裂き、パジャマのズボンだけを履かせてベッドに横たわらせた。

ケアラーの私が悩み・考えたこと

  • 2019.05.05 Sunday
  • 15:48

【入院期間中】

 

1)何を基準にして病院を選べばいいのか/(2)セカンド・オピニオンは必要かどうか/(3)手術すべきか化学放射線治療すべきか/(4)転移発覚後の治療方針はどうすべきか/(5)病院側とトラブルがあったときにはどうしたらいいのか/(6)医師との関係性の構築の仕方はどういうものが望ましいか/(7)予後告知はすべきか/(8)誰にどこまで話すべきか

 

→(1)、(2)について

確実に治る病院で治療したいと思うのは患者家族として当然であるが、その際に、食道の専門家がいるかどうか、症例数、成功率、知名度などいくつかの要素が考えられた。私が思っていた癌治療とは、「末期癌でなければ、手術すれば治る」というようなものだった。昔のように、不治の病というイメージはなかった。他、医療関係者から得た情報を元に、「カンファレンスが他の科と合同で開かれている病院であるか」などを基準にした。食道癌は複数の科の領域にまたがる疾患でもあるため、他科との連携がとれているかどうかは重要な点だという。素人の私はこれについてはまったく知らなかった。しかし、最も重要な要素であったのは、父を初めとする家族が、医師と初対面で信頼感を得たかどうかだったと思われる。また、セカンドオピニオンをしている時間も余裕もなかったことと、A病院がいい病院であると分かったが、最もいい病院で治療を受けさせたいと望む私は、セカンドオピニオンもしたうえで決めたいと思っていた。しかし、それを主治医に告げることにより、せっかくいい関係を築き始めている医師との間に小さな溝を作ることは怖かった。セカンドオピニオンを利用して自分の行きたい病院を選ぶことはできるだろうが(そのためにおこなわれるものであるが)、セカンドオピニオンを利用することは最初の病院に戻れないという危惧感を抱かせる。この時点ですでに医師と患者の間に発生する権力に絡め取られているのかもしれない。また、父と母はセカンドオピニオンがあること自体、あまり知らなかった。

 

→(3)、(4)について

これらは高度な専門知識、他の症例や経験による比較を必要とする問題である。治療方針は単にセオリーで解決する問題ではなく、進行している病状との関連において随時変更されていく流動的なものであることを知った。医師にも明確な原因が分からないさまざまな症状が多くあることを知った。また、治療方針を抗がん剤の「奏功率」によって提示されたが、患者にとっては「治るか治らないか」が問題である。

 

→(5)について

 手術直後の説明で「残した」と言われなかったことを弟と叔母は憤慨していたが、私が問題としたのは他のことであった。父の予後告知は「しない」ということで決めたので、このことについて主治医と科長に他の先生方にも確実に通してもらうようにお願いした。しかし、誤嚥性肺炎で入院したときの病棟が呼吸器科であったため、呼吸器科の先生が父の「なぜ熱が出る」という問いに対して「お腹に丸いものがある」と言ってしまったのである。主治医は呼吸器科の先生に「予後告知しない」ことを伝えていたとのことであったが、この日、主治医は出張中であった。父と呼吸器科の先生との折り合いはあまりうまくいってなかった。予定よりも入院が長引くばかりか、主治医が食事をとらせるようにお願いしても呼吸器科はOKを出さず、絶食であったことが、さらに父を苛立たせていた。実際、このときにはクレームを申し立てそうになったが、そうしたからといって父が治るわけではない。

 

→(6)について

 父にいい治療をさせたいと考えたときに、医師にとって「いい患者と患者家族」であるべきだと私たち家族は考えていた。しかし、どういう患者であれば医師にとって望ましいのかは分からなかった。母と弟にはそれぞれのやり方があったが、私は医師の役割遂行を妨げないように気をつけたが、疑問に思ったことはムンテラ以外にも積極的にメールや電話を利用してその都度聞いていた。

 

→(7)について

 予後告知についてはかなり考えた問題であった。そもそも、告知には病名告知と予後告知があることさえ知らなかった。転移については、主治医からさりげなく母に言われたことが始まりであり、主治医も予後告知については悩んでいた様子がうかがえる。後のムンテラでも、言うならば「あまり大きな問題ではないように言った方がいいのではないか」と主治医は言っている。結局、転移発覚後、私が積極的に主治医に情報を求めるようになったため、予後告知についても家族で結論を出すからそれを循守してほしいとお願いする。予後告知については医師によって考え方が異なり、ある医師は「早く言った方がいい、言わないと他の治療ができない」とも言っていた。しかし、転移発覚後、著しい体力低下などにより結果として他の治療はできなかった。

家族内では、最初、母と弟は「予後告知しない」と考えており、私は「予後告知すべき」と考えていた。母は「言えない、かわいそう」ということであったが、私は「自分だったら知りたい」という理由でこのように考えていた。当初、「緩和ケア専門の病院も検討しよう」と言った私は、弟や叔母、医師からも「それはかわいそう」と言われた。

しかし、何だか自分の意見が腑に落ちず、心にひとかけらのひっかかりがあった私は、書物や知人から意見を聞ききつつ、予後告知について時間が許す限り考えた。途中、何度か家族会議を開き、私は母と弟に自分の意見を説明する。その後、母と弟は「予後告知すべき」という意見に変わる。「父をだますのはよくない」という理由によってだった。

しかし母と弟の意見が「予後告知する」と変わる頃に、今度は私が「予後告知しない」という意見になっていた。心のひっかかりがとれたのである。それは、予後告知をしたいのは「残された時間で父と深い交流をしたい」という、生きている(残されていく)私の欲求であることに気づき、当事者である父の気持ちを本当に汲んではいないかもしれないことに気がついたのである。もちろん、私が自分の予後について知りたいと思うように父もきっと知りたいに違いないと思っていたが(こういうときは類推して考えるしか方法がなかった)、予後告知をした後に、父の性格では「自分は大丈夫だ」という演技を私たちの前でして見せ、気丈さを示し続けるだろうと考えた。苦しく痛いのは父であるのに、さらに苦しさや痛みを否定する演技を父に強いることの方が、父にとって辛いに違いないと考えた。

これらのことに気づいたのは、「真実を話さなくても、言葉がなくても深い交流はできる」と言うある人の言葉であった。その人によれば、(勘のいい)父がすでに知っていると想定して、あえて積極的に聞いてこないならば、家族のためにだまされ通してやるという父の美学なのかもしれない、ということだった。そして、「明快な答えがでない状況に耐えなさい」と私に言ったのである。それ以来、私は予後告知についてイエス・ノーで割り切れる問題ではないことに耐えていくこと、そして、父が父の人生のなかで遂行してきた役割を最後まで遂行させることが大事なのではないか、と考え始めた。

 一方で、父が他界した三週間後に肺癌で他界した母方の祖母は、「あと半年」だという予後告知を受けていた。祖母は腺癌であったために手術をおこなわず、2クールほど抗がん剤治療をおこなったが、結果は出なかった。その後、通院しながら自宅で療養していたが、体調が悪くなり病院に運ばれ、そこで約1週間を過ごす。意識が朦朧とする中で、ときおり目を開けて「ここはどこだ?私はもう逝ったか?」と何度も口にしていた。

 

→(8)について

 自分の痛みをケアしようとして、他者に自分の痛みを伝えると、さらに傷つくことが多くある。また、「病」や「痛」や「傷」などは、他者から「かわいそうな人」というイメージをもたれやすい。自分もケアされたいがかわいそうだと思われたくない、という矛盾の中で感情は常に揺れている。けれども、父ばかりではなく家族もあらゆる社会関係をもっており、その中で生活している以上、言わなければいけない場面が多くある。

 

手術後の経過と家族の気持ち(3)

  • 2019.05.05 Sunday
  • 15:44

弟の声 2008/03/15 携帯メール

 

先生たちがそれぞれの場面で分かっている情報を100%伝えてはくれなかったと思う。専門家と素人で、かつ向こうは検査の結果を把握できてるわけだし、原因不明の熱だったり1、いつのまにか転移していたことだったり、そもそも手術を終えた時点で抗がん剤、放射線をやっても無駄だって分かっていたかもしれないとか考えたりすると2、うまく情報を操作されていたのかなって思うし信頼しきって任せていたわけだけど3

 

(1)化学放射線治療中、4月4日あたりから熱が続くようになる。この熱の原因については、医師もなかなか判断ができなかったようで、誤嚥性肺炎で治療しても下がらないことから、腫瘍熱という判断になっていく。原因が分からないことは、父にとっても家族にとっても苦しいことであった。

(2)化学放射線治療中、右副腎に転移があることが発覚したのだが、このとき手術からわずか2ヶ月であった。母から「丸い影」について聞いた直後、私から主治医をつかまえて詳細を教えてもらえるように話し、すぐに別室で画像を見せてもらいながら説明してもらった。このとき、余命が半年ないだろうということを聞き出した。

また、手術時に切除しなかった「残した」箇所があったことを理解することになる。手術後の説明をした医師はすでにこれについて話していたかもしれないが、「残した」という表現を用いなかったため、そういう印象を受けなかったのである。加えて、医師からすれば、それを「残した」のはトータルで治療を考えたときに、残した部分を化学放射線で治療していく方が、侵襲が少ないなどの利点があったから残したということであるが(治療方針としては間違っていないが)、私たちからすれば「手術が無事に終わる」ことや「手術が成功すること」は、「全部とれた」ことであり「治る」ことを意味してしまっていた。つまり、治療方針ではなく、治るか治らないかの二者択一しかなかった。また、治るとは以前と変わらぬ生活が送れるほどに元に戻ることだと考えていた。

(3)専門家が「素人だから分かりやすく」「ショックを受けるだろうだから言葉を選んで」と心がけていることが、裏目にでてしまうこともある。弟が述べているのは、「信頼していた医師に自分たちは信頼されていなかった」と思えてしまう悲しみでもあったと思う。

手術後の経過と家族の気持ち(2)

  • 2019.05.05 Sunday
  • 15:42

 

母の声 2008/03/15 携帯メール

 

さっきの続きだけど、家にいた3ヶ月1は景子を中心にしたチームワークと、最後まで患者の気持ちを考えての接し方、言葉の使い方、1日1日違う容態に力を合わせてアドバイスには耳を傾け、時にはイラつき、色々な事があったけど2、父親の為旦那様の為に後悔しないように頑張った看護は、誇れる真実です3 

 

1)誤嚥性肺炎から退院後、父は自宅で残りの3ヶ月を過ごした。

2)母は3回ほど、「家で看ることはできない」と私に怒りながら、泣きながらぶつけてきた。なぜかと聞くと、「私はもう精一杯やっている」と言ったり「怖い」と言ったりしていた。しかし、B病院の訪問看護と往診が入ってから、母はそのような発言をしなくなっていく。

3)この直後の電話で、母は「ふとしたときとか景子たちと話しているときにはいろいろ思い出すけど、いざ話せと言われるとけっこう浮かばないものだね」と言っている。なお、母や私にとって、悲しみ深い父の死がそれでも誇れる事実として語られる要因のひとつに、ケア期間中に父がさまざまなかたちで家族に「笑い」をもたらしていたことも挙げておきたい。

手術後の経過と家族の気持ち

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:44

 

母の声 2008/03/15 ファクス

 

先生から説明を受けたとき、本人はどういう気持ちでいたのかなと、今更聞けないけど。手術後の回復は早かったし、病院へ行くのがこの時は楽しみだった1。化学治療法で入院した時は、だんだん心理的につらくなってきたのに、先生は、看護婦さんも、心療内科の先生への打診は、私が同じ病気の奥さんに話を聞いてからの行動だったのがおかしい。あの状態を見たら、もっと早く、精神が落ち着く薬をもらいたかったし2。辛い顔をしている本人を見るのはこちらも辛い。研修医の女医の先生が、ベッドの高さで会話してくれたのが嬉しかった3。徐々に転移のことが分かってきた4。やはり治らないのかと思った。同じ病気の奥さんとの情報交換は同じ境遇の者としてすごい励みになった5。転移の告知をするか、しないかの時、言わなくてよかったとつくづく思う。家に帰ってから、3ヶ月は今思うとあっという間に過ぎたと思うが、この長い一日一日がいつまで続くのかと思う時があり6、子どもに励まされる日々でした。一日の看護も、ほっと息の抜ける買い物の時間が待ち遠しかったが、出かけると早く帰らねばと思う7、毎日。

 

1)手術後は、みるみる回復している感じだった。寝たきりで全身にたくさんの管をつけられた状態から、一日ごとに管が一本外れ、起き上がれるようになり、歩けるようになり、食べ物を口にすることができるようになり、と回復をはっきりと実感できるものだった。

(2)母が主治医に頼もうと思った日に、看護師が「あまりにも辛そうだから、先生に出してもらいましょうか」と母に声をかけてきたのである。もちろん、化学放射線治療の前に、父は心療内科の先生の診察を受け、サポートすることが話されていた。

3)研修医の先生が毎日病室に顔を出し、長時間父と対話をしてくれた。父も研修医の先生についてしばしば話題にしており、来るのを楽しみにしていたようであった。

4)転移のことについては、主治医から母に廊下での立ち話でさりげなく「丸い影のようなものがある」と伝えられた。母はこのことについて、その2日後、大きな問題ではないかのような解釈のもと私に話した。このとき母は、「だって立ち話だったもん」と言っていた。立ち話だったのは、おそらく医師のやり方だったのであろう。

5)父と母は入院期間中に、2組のご夫婦(IさんとOさん)と知り合いになる。Oさんは、ご自身の夫が他界後、私の家に父のケアを手伝いに来てくれた。Oさんの夫が抗がん剤治療をすべきかどうかという相談の電話を父にかけてきたこともあり、お互いに励まし合っていた。母とOさんはいまでも一緒に美術館や食事に出かけており、よいつきあいをしているようである。Iさんの夫は再発後、仕事をしながら現在も治療中であるという。

6)自宅での看護は一時も父から目が離せないものだった。目を離したすきに、勝手に歩き出して転んだりすることが気がかりだったからである。すでにオキシコンチンの副作用で意識が朦朧としていた父にとって、独りでトイレに行くことは困難極めるものだった。そのため、基本的には、母か私のどちらかがリビング(父の寝ている和室とつながっている)にいるようにしており、洗濯物や着替えなどのために2階に上がったりするときにも、どちらかが必ず1階にいるようにしていた。ケアする者たちの日常生活がかなり不自由であることに疲弊することがしばしばあった。

7)母にとって、自宅から車で5分のところにあるスーパーに買い物に行くのが、少し息の抜けるときであった。しかし、出かけると家にいる父のことが心配になり、ゆっくり買い物をすることはなかなかできない毎日だった。

ICU

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:40

 

 翌日、母は早くからT病院に行った。私も午後一番に病院に到着するように行った。途中、クラシックのCDとポータブルディスクを購入した。音楽やテレビはICUでも利用できるということだった。病院に着くと、父は目覚めていてテレビを見ていた。いつもと変わらぬ父だった。そのあっけなさにこちらが驚いたくらいだった。「ここが痛てぇんだよ」と胸の辺りを指しながらゆがんだ顔をしたが、そういう風に言うときには大丈夫な証拠だった。父は、本当に辛いときや痛いときには口に出さないのだ

 

 ICUを見渡すと、そこには私たち家族のように見舞いに来ている人たちがたくさんいた。みな、ただ側にいるだけだ。ICUでは家族は何もできない。ただ、側にいることしかできない。父を担当している看護師がちょくちょく父を見に来た。父は、あの看護師はいいとか悪いとか、まるで自分の会社の従業員を査定するように私たちに話した。

 

 「もう、お父さん、看てくれてるんだから、そんな文句言わないでよ」と言ったが、確かに「えっ」と思ってしまうような看護師もいた。ICUでも歯ブラシなどをするのだが、体中にたくさんの管をつけられていて、父はまだ思うように体を動かせない。ある看護師が歯ブラシをケースから出してテーブルの上に投げるようにして「はい、歯ブラシしてくださいね」と言って去っていったときには、ちょっと驚いた。父は誰かの助けを借りないとまだ何もできなかった。私たち家族がいたから、「家族が助けてやってくれ」という意味で置いていったのか、あるいは、「自分でできるようにならないとICUからいつまで経っても出られない」という意味で置いていったのか、あるいはただ単に機嫌が悪かったのか、判断しかねた。いずれにしても、家族が父の側にいることが看護師の業務に支障をきたすようならば、あまりここに来ない方がいいのかもしないと、ふっと思ったが、それでは父がかわいそうである。結局、ICUに入っていたのは3日間だったので、そうこう考えているうちに一般の病室へ移動することになった。

手術の説明

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:39

 

 手術室とICU(集中治療室)は6階にある。ICUの側には手術をしている患者家族の待合室があって、そこから少し入ったところに病理解剖室がある。K医師に連れられて歩きながら、手術が無事に終了してICUに入ったということが話された。病理解剖室に行くと、そこにはたったいま患者から切り取った組織をピンで留めている医師がいた。理科室にあったような机と実験用の器具がたくさん置いてある。検査での診断通りだった。病巣部はきれいにとった。でも、軟骨にリンパ腺がべったりとついていたのが気になるので、放射線治療などをした方がいいと思う。そんな説明だったと思う。K医師は父のこれからの仕事のことまで考えながら話してくれた。治す、治る、という希望がもてる話でるように思えた。実際には、詳細なことはよく分からないというのが本当だった。食道がんについて勉強したつもりだったが、太刀打ちできるわけがない。手術が終わったことだけで頭がいっぱいだった。居ても立ってもいられない割には、あんなにリアリティがなかったのに、終わった途端に一気に安堵感に包まれた。

 

目の前にある父の食道。筒状になっていた食道は真ん中から切り開かれて、その下に少し胃がくっついていて、いびつな長方形をしていた。そこには灰色っぽい黒っぽい色をした粘着質のようなものがこびりついていて、長方形の真ん中辺りが少し破れていた。「わっ、大きい」と叔母が言った。「ええ、大きいですね」とK医師。しかし、私はそれががん細胞としては大きな部類に入るものなのかもしれないが、こんなに小さなものが人を死に至らしめるということの方が不思議で仕方なかった。大きいといっても、噛み終わったチューングガムを紙に貼り付けて広げたくらいの大きさなのである。

 

いずれにしても、K医師の説明をそこにいた私たちは、「これで治る、目に見えるところは全部とったんだ」と解釈していた。手術したのだから治る。もう大丈夫だ。家族の誰もが素朴にそう思っていた。けれども同時に、私はK医師の言葉が明快ではない表現が多いことをなんとなく気にしていた[1]

 

 ICUに入ると、父のベッドの周りに父の手術を担当したと思われる数名の医師が父を囲むようにしていた。私たちに気づくと、すぐに立ち去った。父に面会できるようにしてくれたのだろう。テレビで見るような器具を体中につけられていた父の姿を見て、やっと、涙がこみ上げてきた。挿管されていたので口へつながれている管を固定するために、唇はテープで留められていて少しゆがんでいた。まぶたはまるで糊で留めたかのようにぴったりと閉じられていた。「よかった…」「お父さん、がんばったね」そんなありきたりの言葉しか出ない。エレベーターで見送った父は、いまベッドに横たわっている。その間、父はどんな思いをしたのだろうか。手術室に行くまでの間、手術台に上がるとき、逃げ出したくなかったのだろうか。怖くはなかったのだろうか。

 

 叔母と叔父と従兄弟は、ベッドで眠る父の顔をみて帰宅した。私と母と弟は、とりあえず近くの喫茶店に行ってコーヒーを飲んだ。疲れ切っていた。「悪いところは全部とったんだ。これで治る。よかった」と、そう互いに言い合った[2]。それからまたICUに戻り、父の顔を見た。何も変わっているところはない。ただぐっすりと寝ているだけだった。

 

[1] 大抵の場合、医師は治療に関わる事柄についてきちんと説明している。しかし一般的に、患者はそれを理解しきれない。そこが医師と患者の間にしばしば生じる誤解の元であることは周知であろう。私は医師の話す言葉の論理的構造は分かっても、「軟骨にリンパ腺がくっついている」ことがいかなる点において問題になるのか、それが分からなかった。

[2] このときはまだ知らなかった。食道がんの治療において、手術後の治療がどれだけ大変なのかを。「手術が成功した」という意味を。

手術

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:38

 

 手術の前日[1]に、私たちはT病院付近のホテルに泊まった。朝830には父は手術室に向かう。逗子から叔母も駆けつけてくれた。元看護師だった叔母だ。こういう時は頼りになる。朝、病室に行くと、父はすでに浣腸を済ませ、ゲームボーイをしていた。K医師が来て「翁川さん、おはようございます。随分落ち着いていらっしゃいますね、普通でしたら、落ち着いていられないですよ」と声をかけていった。その後も23人の医師が入れ替わり立ち替わり来て、「翁川さん、今日はがんばりましょうね」「今日は僕も入ることになったので、よろしくお願いしますね」などと声をかけていった。叔母が「落ち着いてるだなんて、久男さん、緊張しちゃって全然ダメじゃない」と言った。その通りだと思った。ゲームボーイをしている父は落ち着いているどころか、不安を紛らわそうとしているようにしか見えなかった。

 

 しばらくすると看護師がやってきて、術前の処置をやり始めたのでバタバタとしだした。手術用の衣服に着替え、手術用の靴下を履いた。「じゃあ、そろそろ行きましょうか」と担当の看護師が言った。「えっ、このまま?」と思わず言ってしまった。よくテレビでやっているように、手術室にはストレッチャーに乗せられて行く」と言って父を誘導する。エレベーター前に着くと、「ご家族はここで」と言われた。エレベーターに乗った父は、右手を挙げて「そんじゃあ」と言った。いってらっしゃい、がんばってね、お父さん、そんな言葉をかけたかと思うが、覚えていない。ただ父の「そんじゃあ」という言葉と、エレベーターの中に立っていた父の姿を見て、10年前、初めてタイに赴任するときに見送りに行った成田での父の姿を思い出した。

 

 リアリティがない。父が手術しているリアリティなどは、まったくなかった。自分の感情がよく分からなくなった。一緒に闘っているというのもまったく違う気がした。闘っているのは父のみだ。ものすごく心配しているのに、父の身の上に起こっている出来事の手触りが分からない。手術中に死ぬことはないと、どこかで安心してしまっていたからかもしれない。

 

 私と母と弟と叔母は交替で食事をとった。手術は67時間以上かかるということだったので、午後45時を過ぎるだろうということだった。その間はデイルームで誰かが待機していなければいけない。手術中に家族に連絡することもあるからだという。昼過ぎに叔父と従兄弟が病院に来てくれた。午後2時くらいに私と弟は、近くの喫茶店に行った。何となく、じっとしていられなかった。私は論文の締切があったので、その作業をしていた。なんとなく、私も一緒に闘うためには私がすべきことと闘うことで、自分の無力さに対する罪悪感を薄めようとしていたのだと思う。

 

 午後3時半頃に、私と弟はデイルームに戻った。替わりに母と叔母が16階のレストランに出かけるという。私は弟に、「ちょっとトイレに行ってくる。まだ呼びに来ないよね。大丈夫だよね」と言ってトイレに向かおうとしたその時、手術が終わったことを看護師が告げに来た。弟はあわてて母と叔母を追いかけた。いつも混んでいてなかなか9階に止まってくれないエレベーターは、母と叔母をエレベーターの前で待たせてくれていた。すぐにみんなで病理解剖室に向かった。向かいながら、私は手術は67時間以上と言われていたのに、少し早く終わったことが何となく気にかかっていた

 

[1]父が他界した一週間後に見つけたのだが、この日(手術の前日)に父は「お願い事項」と題する手紙を書いていた。そこには、「寿々子へ お父さんは、これから手術に行きます。先生の話では術中の死亡率は非常に少なく心配する事は無いと思いますが100%はありません。万が一のときに備えて以下にいくつか私が居なくなった時の対応を記しておきます」で始まり、6項目に分けてこれからの家族のあり方について、父がタイでお世話になった人たちとのつきあい方について、タイでの後始末についてなどが書かれていた。

入院

  • 2019.05.02 Thursday
  • 07:31

 

 入院してからは、検査の毎日だった。見舞いに行っても、検査でいないこともしばしばあった。一体どれほどの種類の検査があるのかと、その多さに驚いた。父の部屋は外科病棟9階にある4人部屋の入り口側だった。個室を希望したが、満室なので空き待ちということだった。窓からの光もカーテンで遮られた部屋。壁には黒ずんだ汚れがあちこちにあった。決して不潔というわけではないが、これから大手術を受ける父を持つ娘としては、もう少しどうにかならないのかと気になった。それをカバーしようと、毎日オレンジや黄色やピンクの花を買って行った。

 

 T病院まで行くのに、実家から片道2時間近くはかかる。母が昼頃に、私が夕方にという風に交替制にしたり、私が行く日は母を休ませたり、そういう日には弟が仕事帰りに寄ったりしていた。病院では6時頃が夕食の時間だ。父は夕方になると「もう帰っていいよ」と言う。毎日往復4時間近くの道のり。行きはともかく帰りは満員電車。でも、夕食前に父を残していくのはいつも後ろ髪が引かれる思いがした。さみしくないか、つまらなくないか、いま頃何をしているのか。夜、TVをつけると懐かしの昭和歌謡曲特集がやっていたので、母は父にメールをした。「見てるよ」と父から返事が来る。それだけで何だかほっとした。

 

 入院して3日ほど経った頃、私は父と一緒に病院で夕食を食べることを思いついた[1]。なぜこんな簡単なことにもっと早く気がつかなかったのだろうかと、自分を責めた。さっそく、T病院に向かう途中に東武デパートに寄って、父が好きそうな魚料理を数種類買い込んだ。カレイの煮付けや鯛の煮付け、どれも食べさせたかった。「今日から私も病院で夕飯を食べることにした」とさらっと言うと、「そうなの?」と父は言った。否定しなかった。これは父が望んでいるということだった。病棟には各階にデイルームという部屋がある。そこには自由に使ってよい56個のテーブルとそれぞれのテーブルに4脚ずつの椅子が備え付けてあり、テレビ、製氷機、水道、花瓶が置いてある。夕食時にデイルームに行くと、そこには私たちのように一緒に夕食をとろうとしているご夫婦と独り身だと思われる患者さんがすでに座っていた。「あの人がここのボスだよ」父は小声で言った。「何でも知ってるんだよ、ここの病院の歴史とか、評判いいとか。ああなるまで長くいるもんじゃないよな」。「でもお父さん、なんだかんだいって、けっこう仲がいいみたいじゃない」と私が言うと、「だって話しかけてくるんだよ、誰も相手にしてくれないみたいだから、聞いてあげてんの」と父は言った。そんな話をしながら、独りで病と闘わねばならない人の背中をじっと見つめてしまっていた。父もまた長い単身赴任生活のなかで、知っていたのだろう、独りの意味を。

 

 次の日からは父が食べたがっていたとこぶしの煮付けや鰯の煮付けなどを毎日持って行った。母と私で交替で父と夕食をとり、先に帰った者が家事をした。父は夕食が食べ終わると、いつも体重計にのった。体重が維持できていること、500グラム増えるだけでも安心するようだった。「ここの飯はけっこううまいんだよ」と父は言いながら、ご飯が食べられる自分を確認しているようにも見えた。「まったく、病院に入れられるとすっかり病人にされちゃうんだよな」と父は言った。「ほんとその通りだよね、病院ってある意味すごいね、普段は暴れん坊のような人もきっとおとなしくなっちゃうんだろうね。でも、そうじゃないと医者も治療できないよね、きっと」と私は言った。

 

[1] 私は自分が入院したときの経験を思い出していた。そうすることで、父のいまの気持ちに少しでも近づけるような気がしたからだ。こうして私は自分の入院中に、夕食を母と食べたかったことを思い出した。

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