在宅ケア

  • 2019.05.10 Friday
  • 15:38

 

 翌日から私は在宅診療をしている病院を探し始めた。イギリスに行く前に、インターネットなどですでに目星はつけていたが、家で看取ることができるのかという不安が迷いとなり、また、もしかしたら回復してテレビで見るような何万人に一人の奇跡が起こるかもしれないというかすかな期待が混在し、行動に移せないでいた。「本当に父は死んでしまうのか?もしかしたらこの状況を越えれば回復をするのではないだろうか?」目の前に、痩せ衰えていく父を見ながらも、いつも定まりきらない心のまま、それでも在宅ケアの準備を始めなければならなかった。

 

 庭掃除をしている母に在宅ケアのことを相談した。母はあまり気乗りしていないようだった。眉をひそめながら、お願いするならS医院がいいと言う。S医院の先生は前から私と弟と母に話しておかねばいけないことがあると言っていた。じゃあ一度S医院の医師と話しをしてみよう、と私は母にお願いしてその日の夕方にS医院に予約を入れた。

 

 S医院に着き診察室入ると、医師はにこやかに私を迎え、往診をお願いできるかと聞く私の相談に親身になってのってくれた。医師はこう言った。「私も病院に勤務しているときは人が死ぬ時期が分かったけれど、病院から離れて思うことは、人はいつ死ぬか分からないってことなの。余命3ヶ月と言われた人が、一年生きることもあるの」。予想外の発言に違和感を覚えながらも、私は父を家でできる限り看たいということと、その場合、S医院でお世話になることができるかどうか聞いた。私はS医院の医師の「考え」を知りたかったので、予後告知についてどう思うか聞いてみたりした。もしかしたら父がお世話になるかもしれない人だ。どういう考えをもっているのか、信頼できる人なのか、それが知りたかった。S医院の医師の話しは、始終、私の発言に合わせるという感じでおこなわれた。明るい展望すら抱くものでもあった。しかしそれは、何だか違和感を覚えるものでもあったのだ[1]。とりあえず、また後日に相談に来るかもしれないということをお願いして、この日は帰った。

 

 翌日、自宅から車で15分ほどのところにあるS大学付属病院のソーシャルワーカーに相談に行った。この病院がおこなっている在宅診療についてと、父が急に倒れたり何かあったりした場合に受け入れが可能であるか、知りたかったのだ。私の地域には病院はそれほど多くなく、末期癌の患者を受け入れてくれる病院といえば、療養型の病院くらいしかない。ましてや緩和ケア専門の病院などはない。療養型の病院には主に高齢者の方々が入院しているので、そこで適切なケアが受けられるのか心配だった。ソーシャルワーカーの人は丁寧に相談に乗ってくれた。しかし、父がここで在宅診療を受けることはできないことが分かった。来る前からホームページで調べて、私の家がある市は往診・訪問看護の範囲外であることは知っていたが、範囲内に含まれている市よりも距離的には近い。もしからしたら…、と思っていたが、やはり無理だった。救急で運ばれてきた場合には、おそらくS大学付属病院に運ばれるだろうということであったが、その後は、近くの療養型の関連病院に転院される可能性が高いということであった。ソーシャルワーカーの人は、これ以外にも近くの在宅診療をしている病院を紹介してくれたが、どれも私が調べた病院であり、かつ、どれも家から「近い」という距離ではない。私はここの病院の患者でもないのに、時間を割いて相談にのってくれたソーシャルワーカーにお礼を言い、まだ明確な答えが出ない状況に心の置き場が見つからないまま肩家路に着いた。

 

 その翌日、T大学付属病院のN医師とソーシャルワーカーのそれぞれと相談の予約を取っていた。果たして今日で結論が出るのか、何か糸口は見つかるのか、私の心はざわめいていた。ここ数日、父は毎朝熱が出て目覚める。起きてからは、水痰というか、透明なぶくぶくとした唾液のかたまりが吐き気とともに出てくる。食事は、家族がとる時間に合わせて、朝・昼・夜と一緒に食卓を囲むが、食欲は少なめである。一日に1回か2回くらいおかしなことを口にする。夜、一緒にテレビを見ていてニュースを読むアナウンサーを指さしながら「この人は大学を中退したんだよ」と言ったり、朝ご飯だとベッドに呼びに行けば「さっき食べた」と言ったりする。「まだ食べていないでしょ」と確かめるように話すと、はっとした顔をして「僕ちゃん、アルツハイマーになっちゃったみたい」と言う。自分でも何かがおかしいことが分かっているのだ。そのせいか、オキシコンチンを出しても「これ何?」と私たちに問いかけ、「痛み止めだよ」と言っても、そばにあるティッシュの上にのせて飲もうとしないことが何度かあった。こういうとき、私は何と答えたらいいのか分からなかった。父をだましているようで胸が苦しくなった。昨晩、これからどうするか弟と話し合った。母は相変わらず家で看ていくということに消極的であった。弟は私の話を聞いて、いますぐに結論はだせないけれども、正直、家で看取るというところまで想像していなかったという。当たり前だ。私だって想像していなかった。いまだって、本当に父が死んでしまうのか、想像できない。けれども、想像できないという理由で、何も準備しないのは違うと思っていた。父が治るかもしれないという希望はもったまま、でも、万が一に備えておく。明らかに、気持ちと行動が矛盾していた。

 

 T大学付属病院のソーシャルワーカーは、私の話をじっくりと聴いてくれた。私は、家族にもうまく言えない気持ちをつい口にしてしまっていた。私はいまのところ、母が家で看ていくならS医院にお願いしたいというので、S医院の方向で考えていることを話し、混沌とした気持ちを吐き出した後で、ソーシャルワーカーの言葉を借りながらこれからなすべきことを順序立てて整理しなおした。ソーシャルワーカーはK病院にも往診と訪問看護があることを教えてくれた。K病院は、旧自宅に近い総合病院で、そこでは母も弟も入院経験があり、私も何度かお世話になったことのある病院だった。しかし、往診と訪問看護があるなど、聞いたことがなかった。総合病院であることを謳ってはいるが、往診や訪問看護は謳ってはいない。往診や訪問看護を専門的に掲げている病院の方がいいに違いないと思っていた。結局、ソーシャルワーカーの勧めで、K病院と現自宅から歩いて10分程度のA病院が父の受け入れや往診と訪問看護が可能かどうかを確かめてもらい、それからS医院も含めて最終的にどこにお願いするかを決めていこう、という話しになった。

 

 ソーシャルワーカーとの相談の後、N医師とのムンテラをお願いしていた。今日、どうしてもN医師にお願いしなければならないと思っていたことは、月に一度の検診をこの先もしてほしいということと、万が一のときに、T病院にお世話になることも視野に入れておきたい、ということだった。父は、T病院に検診に行って、医師や看護師の前で格好をつけることがひとつの励みになっていると私は感じていた。T病院とのつながりを絶たれることは、父にもう希望はないと宣告するようなものである。だから、どうしても、T病院には細くてもつながっていることが大事だと思っていた。そしてそれは、私にとってもそうだった。万が一があったとき、自宅の近所にある療養病院で父に何をしてやれるのか。まだ見たこともない場所や人に父の最期を看てもらうことはどうしても嫌だったのだ。私はきっと神妙な顔をしていたに違いない。無理なお願いをするのだ。でも、どうしても受け入れてもらわないと困る。N医師が待合室にやって来て、私を診察室に呼んだ。N医師は頼んでおいた診断書など事務書類を処理しながら、さりげなく父のいまの様子を聞き始めた。N医師は人への入り方が非常にうまい人だった。そして、患者の気持ちがなぜこんなによく分かるのかと、私はいつも不思議に思っていた[2]。電話をすれば、どんなときにでも出て、疑問に答えてくれた。

 

 ぶくぶくと出る水痰のようなものは、オキシコンチンの副作用だということがN医師は即座に分かったようだった。N医師は父の様子を丁寧に聞きながら、これからは父を看ている家族が辛くなってくるということを何度も繰り返した。そしてさらりと、「いざとなったらうちに来てもらっても構わないんで、まぁ、保険と思って」と笑いながら言った。もしかしたら、ソーシャルワーカーから聞いていたのかもしれない。私がお願いする前に、私を安心させてくれた。

 

 帰り道、万が一があってもT病院で受け入れてもらえると分かった私は、心の雲がひとつ晴れ、少し身軽になった気持ちで家路に着いた。

 

[1] いま思えば、おそらく末期癌患者の症状に関する生きた言葉による描写がなかったからであろう。現状の父の様子とはかけ離れ過ぎていて、きれいごとのように聞こえたのだ。

[2] 後で知ったことだが、N医師は3年ほど前に母を癌で亡くしていたという。N医師の母も自宅で看取ったということだった。

再び病院へ

  • 2019.05.10 Friday
  • 15:34

 

 私がイギリスへの出張に行く前日、母が「お父さん、最近痛がっているから、今日N先生のところに行ってモルヒネ系もらってこようか?」と言う。確かに、私が不在となると叔母が来てくれることがあるとはいえ、母にくる負担を考え、N医師のところへモルヒネ系の薬をもらいに行くことにした。T病院に電話をし、N医師との外来の予約を取り付け、私は急いで病院に向かった。向かいながら、私は少し迷いがあった。父に無断で新しい薬をもらいに行くのは初めてだった。父にモルヒネ系の薬のことを、どうやって説明したらよいのだろうか。父はN医師には信頼をおいている。父とともに病院に行ってN医師に処方してもらうなら、父も納得するだろうが、大丈夫だろうか。かといって、次の外来予約まではまだ3週間近くある。私は明日からイギリスだ。薬をもらいに行くしかない、と判断した。

 

 もらってきた薬はオキシコンチン。錠剤の薬だ。夕食後、「お父さん、これお薬ね、飲んで」とコンチン1錠と水を渡すと、父は何も聞かずに飲んだ。その日は寝るまで腰に手を当てて痛がるしぐさをしなかった。コンチンが効いたのだと思い、これで父の痛みが緩和されるならやっぱりもらってきてよかったのだと思った。

 

 翌朝、私と母が出発までの時間にししまるとふざけていると、私たちの声に気がついて起きたのか、父が「おい」と話しかけてきた。「お父さん、おはよう、行ってくるね」と私が言うと、「じゃあ小遣いをやらなきゃな、お母さん、財布とって」と父は言った。母が父にお財布を渡すと、父はお札の枚数を数えた。私が隣の居間に戻って荷物の確認をしていると、父は「あれ、お母さん、財布どこにやった?」と言う。「お父さん手に持っているじゃない」と母が言うと、「ああそうか」と言いながら私にお小遣いをくれた。このとき、私は違和感を覚えた。オキシコンチンの副作用だ、と直感した。駅までの車の中で、母にそのことを伝えると「そう?気にしすぎよ、寝ぼけていたんじゃない」と母は言う。私の気にしすぎなのだろうかと思いながら、少し不安を抱えて私はイギリスに向かった。

 

 イギリスには10日間滞在予定だった。行くのを取りやめようと悩んだが、その判断をするには時間が足りなかった。迷っているうちに当日になった。「きっと、大丈夫だろう」と思いながらも、「もし、私がいないうちに死ぬなんてことがあったらどうしよう」と考えていた。毎日、日本へ電話した。1日目は「大丈夫よ」という返事だった。ところがその次の日には「どうしよう、お父さん、おかしくなっちゃったみたい」と連絡があった。「えっ?おかしくなったって、どんな風におかしくなったの?」と私が聞くと、「なんかね、ボケちゃったみたい。まぁ、でも何とか大丈夫だから、景子は自分の仕事がんばって」と言う。「私、帰国予定を早めようか?」と言っても「ううん、大丈夫よ」と母は言った。しかし私は気になって仕方がなかった。

 

 3日目、父が気がかりな私は教授にその旨を話し、自分の判断で帰国の予定を早め、6日間の滞在で帰るように切符を手配した。4日目に電話をすると、母は眠っていたようで叔母が電話に出た。「叔母さん、どう?大丈夫?」と聞くと、「なんかね、久男さんボケちゃったみたいなのよ。入院させた方がいいと思うわ。すーちゃんにも入院の準備させるから、心配しないで」と言う。神妙な声だ。「私がいない間に、お父さん死ぬなんてことないよね?」と聞くと「当たり前でしょ、そんなこと。大丈夫だから、大丈夫。とにかくね、明日病院に電話させるから」と叔母が言った。「私、帰国予定早めたから、私が帰るまで待ってて。入院もできたら待っててね。もしかしたら、これでお父さんと家で会うの、最後になるかもしれないから」と私は頼んだ。父の身に何が起こっているのか分からないことが辛かった。ほんとうに母と叔母の言っている通りなのか?ほんとうに入院する必要があるのか?現状が分からないのに考えても埒があかないと思いながらも、頭から消えることはない。

 

 成田に着くと、私は荷物をクロネコヤマトに預けて成田エクスプレスに飛び乗り、家路を急いだ。タクシー、バス、電車、どれが一番家に早く着くか。渋滞に巻き込まれたら後戻りできない。私は電車を選んだ。家路の途中の乗り換え駅で、15分の待ち時間があったために、私は立ち食い蕎麦屋で山菜おろし蕎麦をかけこんだ。お父さんにどんな顔で会おう?お父さんはどうなっているんだろう?不安な気持ちばかりが頭に浮かぶ。家に到着すると「お父さん、ただいま」とできるだけ元気に言った。父は、ピンクのシャツにベージュのチノパンを履いて、少し不機嫌そうに「行くんだったら、もう行くぞ」と言った。「えー、待ってよ、私、シャワー浴びたいよ。15分、待って」と言うと、「早くしろよ」と言って居間のテーブルの上にあったマンガを読むふりをした。父はイギリスに行く前よりもしっかりしているくらいだった。母や叔母が電話で言っていた様子は微塵も感じられない。「たぶん、病院に行くのが嫌なんだろうな」と私は思った。

 

 病院に向かう車の中で、私はイギリスであったことや、最近のニュースなどを父と弟と議論した。父は得意げに「それはこうなんだよ、ああなんだよ」と話してみせた。母は父の隣で「そうなの?」と聞いていた。いつもの父だった。いや、いつも以上の父だった。母が電話したら、手術を担当してくれたT医師が見てくれると言うので、救急の入口で待っていた。

 

 父はソファに横になって待っていると、入院中にお世話になった医師や研修医たちが父のそばに来て声をかけてくれる。「何だよ、ここにいたら忙しくてしょうがねぇな」と父は言いながらも、医師たちが声をかけてくれることが嬉しそうでもあった。私は少し心配していた。予後告知についての情報が、ちゃんと他の医師たちに伝わっているか。この間の呼吸器外科のようにポロっと言ってしまいはしないか。診察室には家族全員で入った。私は医師の方をじっと見つめ、転移のことについて口にしないかずっと口元を見ていた。採血をして、脱水症状ではないことが分かると、T医師は「まぁ、脱水症状なのかと心配したんですけど、大丈夫なんでね」と言うと、父は「たいしたことないのにお前が連絡するからだ」と母に向かって強く言い放った。母は少し下を見ながら「すいません」と口にした。点滴をしてもらい、私たちは家に帰ることにした。病院から車までの150メートルくらいを、父は右手をズボンのポケットに突っ込んで左手をぶらぶらさせながら、15センチくらいの縁石につまづきながらも歩いて行った。父が癌を患う前は、いつも右手をズボンのポケットに突っ込んで、左手で煙草をふかしながら歩いていた。私はその後ろ姿を見ながら、胸が苦しくてたまらなかった。「父は病院に入院したくないんだ」と確信した。

 

 家に着くと、父はすでに意識が朦朧としていた。車の中でかなり我慢をしていたのだろう。車の中で「横になれば」と言っても横になろうとしなかった。父を抱きかかえるようにしてベッドに連れて行ったが、着ていた服も脱げない状態だ。身体が硬直してしまっている。口と鼻から鼻水やら唾液がこぼれ落ちている。私と母は父のベルトをハサミで切り裂き、パジャマのズボンだけを履かせてベッドに横たわらせた。

手術の説明

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:39

 

 手術室とICU(集中治療室)は6階にある。ICUの側には手術をしている患者家族の待合室があって、そこから少し入ったところに病理解剖室がある。K医師に連れられて歩きながら、手術が無事に終了してICUに入ったということが話された。病理解剖室に行くと、そこにはたったいま患者から切り取った組織をピンで留めている医師がいた。理科室にあったような机と実験用の器具がたくさん置いてある。検査での診断通りだった。病巣部はきれいにとった。でも、軟骨にリンパ腺がべったりとついていたのが気になるので、放射線治療などをした方がいいと思う。そんな説明だったと思う。K医師は父のこれからの仕事のことまで考えながら話してくれた。治す、治る、という希望がもてる話でるように思えた。実際には、詳細なことはよく分からないというのが本当だった。食道がんについて勉強したつもりだったが、太刀打ちできるわけがない。手術が終わったことだけで頭がいっぱいだった。居ても立ってもいられない割には、あんなにリアリティがなかったのに、終わった途端に一気に安堵感に包まれた。

 

目の前にある父の食道。筒状になっていた食道は真ん中から切り開かれて、その下に少し胃がくっついていて、いびつな長方形をしていた。そこには灰色っぽい黒っぽい色をした粘着質のようなものがこびりついていて、長方形の真ん中辺りが少し破れていた。「わっ、大きい」と叔母が言った。「ええ、大きいですね」とK医師。しかし、私はそれががん細胞としては大きな部類に入るものなのかもしれないが、こんなに小さなものが人を死に至らしめるということの方が不思議で仕方なかった。大きいといっても、噛み終わったチューングガムを紙に貼り付けて広げたくらいの大きさなのである。

 

いずれにしても、K医師の説明をそこにいた私たちは、「これで治る、目に見えるところは全部とったんだ」と解釈していた。手術したのだから治る。もう大丈夫だ。家族の誰もが素朴にそう思っていた。けれども同時に、私はK医師の言葉が明快ではない表現が多いことをなんとなく気にしていた[1]

 

 ICUに入ると、父のベッドの周りに父の手術を担当したと思われる数名の医師が父を囲むようにしていた。私たちに気づくと、すぐに立ち去った。父に面会できるようにしてくれたのだろう。テレビで見るような器具を体中につけられていた父の姿を見て、やっと、涙がこみ上げてきた。挿管されていたので口へつながれている管を固定するために、唇はテープで留められていて少しゆがんでいた。まぶたはまるで糊で留めたかのようにぴったりと閉じられていた。「よかった…」「お父さん、がんばったね」そんなありきたりの言葉しか出ない。エレベーターで見送った父は、いまベッドに横たわっている。その間、父はどんな思いをしたのだろうか。手術室に行くまでの間、手術台に上がるとき、逃げ出したくなかったのだろうか。怖くはなかったのだろうか。

 

 叔母と叔父と従兄弟は、ベッドで眠る父の顔をみて帰宅した。私と母と弟は、とりあえず近くの喫茶店に行ってコーヒーを飲んだ。疲れ切っていた。「悪いところは全部とったんだ。これで治る。よかった」と、そう互いに言い合った[2]。それからまたICUに戻り、父の顔を見た。何も変わっているところはない。ただぐっすりと寝ているだけだった。

 

[1] 大抵の場合、医師は治療に関わる事柄についてきちんと説明している。しかし一般的に、患者はそれを理解しきれない。そこが医師と患者の間にしばしば生じる誤解の元であることは周知であろう。私は医師の話す言葉の論理的構造は分かっても、「軟骨にリンパ腺がくっついている」ことがいかなる点において問題になるのか、それが分からなかった。

[2] このときはまだ知らなかった。食道がんの治療において、手術後の治療がどれだけ大変なのかを。「手術が成功した」という意味を。

手術

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:38

 

 手術の前日[1]に、私たちはT病院付近のホテルに泊まった。朝830には父は手術室に向かう。逗子から叔母も駆けつけてくれた。元看護師だった叔母だ。こういう時は頼りになる。朝、病室に行くと、父はすでに浣腸を済ませ、ゲームボーイをしていた。K医師が来て「翁川さん、おはようございます。随分落ち着いていらっしゃいますね、普通でしたら、落ち着いていられないですよ」と声をかけていった。その後も23人の医師が入れ替わり立ち替わり来て、「翁川さん、今日はがんばりましょうね」「今日は僕も入ることになったので、よろしくお願いしますね」などと声をかけていった。叔母が「落ち着いてるだなんて、久男さん、緊張しちゃって全然ダメじゃない」と言った。その通りだと思った。ゲームボーイをしている父は落ち着いているどころか、不安を紛らわそうとしているようにしか見えなかった。

 

 しばらくすると看護師がやってきて、術前の処置をやり始めたのでバタバタとしだした。手術用の衣服に着替え、手術用の靴下を履いた。「じゃあ、そろそろ行きましょうか」と担当の看護師が言った。「えっ、このまま?」と思わず言ってしまった。よくテレビでやっているように、手術室にはストレッチャーに乗せられて行く」と言って父を誘導する。エレベーター前に着くと、「ご家族はここで」と言われた。エレベーターに乗った父は、右手を挙げて「そんじゃあ」と言った。いってらっしゃい、がんばってね、お父さん、そんな言葉をかけたかと思うが、覚えていない。ただ父の「そんじゃあ」という言葉と、エレベーターの中に立っていた父の姿を見て、10年前、初めてタイに赴任するときに見送りに行った成田での父の姿を思い出した。

 

 リアリティがない。父が手術しているリアリティなどは、まったくなかった。自分の感情がよく分からなくなった。一緒に闘っているというのもまったく違う気がした。闘っているのは父のみだ。ものすごく心配しているのに、父の身の上に起こっている出来事の手触りが分からない。手術中に死ぬことはないと、どこかで安心してしまっていたからかもしれない。

 

 私と母と弟と叔母は交替で食事をとった。手術は67時間以上かかるということだったので、午後45時を過ぎるだろうということだった。その間はデイルームで誰かが待機していなければいけない。手術中に家族に連絡することもあるからだという。昼過ぎに叔父と従兄弟が病院に来てくれた。午後2時くらいに私と弟は、近くの喫茶店に行った。何となく、じっとしていられなかった。私は論文の締切があったので、その作業をしていた。なんとなく、私も一緒に闘うためには私がすべきことと闘うことで、自分の無力さに対する罪悪感を薄めようとしていたのだと思う。

 

 午後3時半頃に、私と弟はデイルームに戻った。替わりに母と叔母が16階のレストランに出かけるという。私は弟に、「ちょっとトイレに行ってくる。まだ呼びに来ないよね。大丈夫だよね」と言ってトイレに向かおうとしたその時、手術が終わったことを看護師が告げに来た。弟はあわてて母と叔母を追いかけた。いつも混んでいてなかなか9階に止まってくれないエレベーターは、母と叔母をエレベーターの前で待たせてくれていた。すぐにみんなで病理解剖室に向かった。向かいながら、私は手術は67時間以上と言われていたのに、少し早く終わったことが何となく気にかかっていた

 

[1]父が他界した一週間後に見つけたのだが、この日(手術の前日)に父は「お願い事項」と題する手紙を書いていた。そこには、「寿々子へ お父さんは、これから手術に行きます。先生の話では術中の死亡率は非常に少なく心配する事は無いと思いますが100%はありません。万が一のときに備えて以下にいくつか私が居なくなった時の対応を記しておきます」で始まり、6項目に分けてこれからの家族のあり方について、父がタイでお世話になった人たちとのつきあい方について、タイでの後始末についてなどが書かれていた。

1月29日

  • 2019.05.02 Thursday
  • 07:30

 

 どんなに迷っても悩んでもどれかを選ばねばならない日は確実にやってきた。父が出した結論は、手術をするということだった。とはいっても、まだ父には迷いがあるようだった。なんとなく落ち着かない。待合室で待っている間も、いつもの父ではない感じだった。それなのに、いつも通りにふるまおうとしている父がよく分かってしまうことが辛かった。2時間近く待たされているということもあったろうが、「おせぇな、もう帰ろうか」「何やってんだよ」などと言うところは、せっかちでぐずぐずするのが嫌いな父らしくもあったが、私にはそれが結論を出せないでいる父の声にならない声に聞こえて仕方がなかった。母はそんな父の迷いに気づいていないみたいだった。その鈍感さが母のいいところでもある

 

 もう話もだいぶ尽きた頃に、医師は胸のポケットから長年使い込んできたと思える茶色の皮の手帳を取り出して、「もしね、また疑問が出てきたら、メールでもいいんでね」と言いながら、自分の大学の研究室の連絡先が書かれた名刺を手帳から引っ張り出した。「じゃあ、お父さん」と言って、私は父に受け取ってもらった。

 

 このことは、父にとっても私にとっても重要な出来事であった。名刺を渡すという行為は、通常、仕事や社交上のことである。そこには、少なくとも「これから関わっていきたい、私を信頼してほしい」という意思が多少なりとも含意される行為である。一般的に、医師が患者に名刺を渡すという行為は考えにくい。医師が患者に病院の窓口以外の自分の連絡先を教えてどんなメリットがあろうか。ともすれば患者からの苦情が直接届く可能性すらある。実際、それまでに私は医師から名刺をもらうという経験をしたことがなかった。もしK医師がすべての患者に名刺を渡しているのであれば、それはかなりの演技派であるか医療行為において患者を「患者」ではなく「固有名をそなえた一個人」として考えてくれる人ではないかと密かに考えていた。

 

 その日、私は名古屋に戻った。後ろ髪が引かれながらも、ずっと父といるわけにはいかなかった。ずっと父のそばにいることが、父とできるだけ長くいたいと思うことが、父の死を前提にしているみたいで嫌だった。

手術か放射線か

  • 2019.05.02 Thursday
  • 07:29

 

 K医師とのムンテラが終わった次の日、私と父と母は家の近くに新しくできた大きな温泉施設であるまきばの湯に出かけた。どこかに出かけたかった。なんとなく家でじっとしていられなかったし、手術か放射線かという選択について腰を据えて家族で話し合うことなどできなかった。昔から、そうだった。父が私たちに何かを相談するということは100パーセントなかった。私も父に何かを相談するということはほとんどなかった。自分で考えて、母に少しだけ相談して、それで決まったことを父に手紙で伝えていた。そして父は、私が決めたことに対して反対したことはなかった。大学四年生のときに、「バーバリーのトレンチコートが欲しいって景子が言ってる」と母が父に電話で話したときに、「まだ大学生がバーバリーなんて早い」と言いわれ、購入することを反対されたことは覚えている。でも、それ以外では覚えていない。私が大学院の博士後期課程に行くと決めたときにも、タイの父の部屋のテーブルにそのことを記した手紙と深い茶色と薄い茶色のマーブル模様にゴールドの縁取りがされたバーバリーのタイピンを置いていった。中学生のときに怒られたときにも、夜中に居間のテーブルに「お父さんへ」と書いた手紙を残して眠った。照れくさくて、面と向かって大事なことを話すということができない家族だった。でも、お互いの不器用な性格を知っていたので、いつもお互いの背中を見つめて愛情を確かめ合っていたような気がする。

 

 まきばの湯に着いたら、父が私の名前でメンバーズカードを作ってくれた。私はそれを見ながら、私の名前で作ったのは「父がもう二度とここに来ない」という意味ではなくて、また元気になったらタイに戻るから私の名前で作ってくれたのだと解釈しようとした。不吉なことは考えたくなかった。温泉からあがると小腹がすいたのでレストランに向かった。「お父さんいかそーめんがあるよ」と私は言って、父が食べたいだろうものを私たちは選んだ。父は父で、「食べたいものを頼みなさい」と言った。すでに父は食べ物がうまく飲み込めなくなっていた。苦しそうな顔は決してしなかったが、飲み込むときは苦しそうだった。父は「苦しい」ということはこれまでにもこの後にも、一度も言わなかった

 

 手術か放射線か。K医師にどちらかを伝える日は129日。あと1週間もない。父はパソコンを開いてトランプゲームをやりながら、ときおり、食道がんに関する情報をインターネットで閲覧しているようだった。母が「お父さん、どうするの」と聞いても、視線を合わせないで「うん」と答えるだけだった。これもいつもの風景だ。何を相談しても、父は視線を合わせないで「うん」と言う。何を考えているのか、どんな気持ちでいるのか、家族に話したことはほとんどない。父の気持ちをさらけ出してくれた方がどれほど楽なのに、とこれほど思ったことはない。

 

 次の日、私が購入した3枚の絵が届いた。新居に絵が欲しいという母の願いだった。2枚は濃淡のあるピンクと白で描かれた繊細な花の絵。リビングの白い壁に2枚並べると素敵だろうと思って買ったものだ。もう一枚はひまわりの絵。ひまわり好きの父と母と私。玄関に飾りたかった。どれも高いものではない。なんとなく家に色彩が欲しかったのだ。私と父はさっそく包みから絵を取り出して、絵を飾り始めた。細かい作業の得意な父である。ピンク色の2枚の絵がバランスよく飾れるようにメジャーで長さを測り、私が椅子の上に乗って飾った。「お父さん、ちょっと右がずれていない?」「いや左の方が少し下がってるよ」と、私は父と過ごす時間はもしかしたら数えるほどしかないのかもしれないという気持ちを否定しながらも、父との時間の手触りを確かめるように言葉を発していたように思う。

 

 夕食後に父が食べやすいように薄く切った真っ赤ないちごを母が出してくれた。それを一切れ口にした父は、むせ込んだ。むせ込んだ、というよりも、いちごが食道につまって息が苦しいようだった。私たちは驚いて、父の背中を必死にさすった。さすってもさすっても、一向に楽になりそうにもない。「救急車呼ぶ?」と母が眉間にしわを寄せながら言ったが、父は「ゼィゼィ」という息にも言葉にもならない声をあげながら、テーブルの上に置いた手をあげて横に振った。30分以上、そんな状態が続き、やっと呼吸が穏やかになり始めた。その間、私には背中をさすることしかできなかった。5ミリにも満たないいちごの切れ端すら、飲み込めないという事実を目の前につきつけられ、いまの父の状態がどれほど深刻なものなのかを垣間見た気がした。「ちくしょう、俺、これさえなければ他は元気なのになぁ」と、父は自分ののどぼとけ辺りを触りながら言った。「うん、そうだよね、それさえなければ、お父さん元気なのにねぇ」と私は言った。父の痛みを代わってあげることはできない。

T大学付属病院でのムンテラ

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 16:04

 

 T大学付属病院(以下、T病院)では13:00からの予約を取っていた。私は12:30くらいに病院の入り口の総合受付に着くと、そこにはいつも仕事に行くときに着ていたベージュのトレンチコートを着た父といつも父の後ろをくっついているばかりの母がいた。「お父さんが、景子が昼ご飯食べる時間ないだろうからって買ってきたの」と言って、母はサンドウィッチの入ったコンビニ袋を私に渡した。不器用な父である。おそらく名古屋から駆けつける私のことを思って自分で買ったものなのに、その手で私に渡してくれないのだ。いつもそうだった。私や弟への愛情を言葉で表現することなんて一度もしたことのない人だ。何か言いたいことがあったり、渡したいものがあるときには、母をその運び人とした。そういう愛情の示し方が、私たち家族のやり方だった。

 

 名古屋から東京に向かう新幹線の中で、私は医師に聞くことをまとめていた。食道がんの治療法やどういう病院を選ぶべきかというポイントは、事前に調べておいた。たぶん誰でも大切な人が重病に冒されたときには、一番いい病院で一番いい治療をさせたいと願うだろう。けれどもこの「一番いい病院」の定義が難しい。有名になっている病院や医師が「一番いい」とは限らない。もちろん、有名な病院では満足いく程度の治療システムは確立している可能性が高い。けれども、それが当事者にとって「一番いい」のかどうかは、結局は、当事者と病院とそのスタッフたちとの関係性に拠るものだと思っている。

 

 事前に調べたところでは、T病院の食道外科のホームページは構築中で、そこから何かの情報を得ることはできなかった。だから、一般雑誌やT病院の他の科を参考にしつつ、T病院の信頼性について考えていた。要するに、セカンド・オピニオンをする必要性があるかどうか、ということを判断したかったのだ。食道がんの治療法は、集学的治療といって「手術」「放射線」「化学療法(抗がん剤)」の3つをうまく組み合わせながら治療していく必要があるという。ただ、食道がんの手術は喉元と胃と肺を開腹する大手術であり、10年くらい前には手術してもその予後で亡くなられる方も多かった。それゆえに、手術をしないで抗がん剤と放射線だけで治療することを謳う病院もいくつかあった。

 

 私は医師にどうやって話しをしようかと、さまざまなパターンをイメージしながら考えていた。おそらく、医師に限らず専門家や研究者はインターネットや一般雑誌で得た情報を鵜呑みにして、それらをひけらかすタイプの人間には手を焼くだろうと予想していた。そんな話を何かで聞いたこともあった。それに、私自身も研究者の世界に片足をつっこんでいる人間なので、何かを専門的に研究することはそんなにたやすいことではないことはよく分かっていたし、だからこそ、ときには嘘や些細なことを大げさに報道するメディアの情報は常に疑心暗鬼のまなざしで見ていた。私が医師との初面会でとにかくこれだけは気をつけようと思ったことは、医師にその役割をまっとうしてもらう、ということだった。それに加え、医師にとって父が単なる患者やサンプルのひとつではないような関係性を築くことだった。もちろん、患者を単なるサンプルとして考えている医師などは、ドラマやマンガで描かれる医師を除いてそう多くはいないだろうと考えている。ただ娘として、父が関わる医師には「この患者を私が治療してあげたい」という気持ちをどうにかして起こしてほしかったのだ。そのためには、医師が医師という役割とそれ以外に彼が持っている役割[1]との間のゆらぎの中に入り込む必要があると考えていた

 

 2階の外科外来の待合室にいると、私たちのように、親子そろって来ている人たちがいた。すでに一度検査に来ていた父は、すらっとした感じで背筋がピンと張った白髪の先生を見かけると、「あの人がK先生だよ」と言いながらぐるりを観察していた。私たちよりも早く呼ばれたある一組の家族が診察室から出てくると、みな赤い目をして下をうつむきながら側を通り過ぎていった。それから5分ほど待つと「○番室に入ってください」というアナウンスが流れた。

 

 診察室に入ると、さっき見かけた白髪の医師が太く穏やかな声で「どうも、こんにちは」と言った。「今日は娘も名古屋から来て…」と母が言うと、目をちょっと大きくして私を見た。父は医師の後ろにあったベッドに腰掛け、母はその隣の椅子に、私は医師の机の脇の椅子に腰掛けた。それから私は、バックからいつも持ち歩いているメモ帳とペンを取り出した。

 

 医師との話は2時間近くに及んだ。一番驚いたのは、こんなに長く話してくれるものなのか、ということだった。K医師は決して自分から話を終えようとしなかった。「他に何か聞きたいことはありませんか」と何度も言った。

 

 その後、私たちは16階の展望レストランに行ってお茶をした。一気に緊張がほぐれた。「お父さん、やっぱり手術でいいと思う」私は言った。「うん、なんか、あの先生、すごい自信があるみたいだったな。自信がないとあんな風にはいえないよなぁ」と父が言った。お茶を終えて1階まで降りるエレベーターで、偶然、K医師と乗り合わせた。K医師は書類に目を通しながら、「じゃあまた、何かあれば」と言って6階で降りていった。

 

 帰り道、私たちは父が勤める会社に立ち寄るのに同行した。途中、父が手土産を持って行くと言うので、門前仲町あたりで洋菓子の詰め合わせを3つ購入した。父はそれを持って、会社にしばらく休むということを伝えに行くのだろう。池袋駅に着くと、父が「東武に寄っていこう」と言うので、東武デパートの地下食品街に寄った。父はとこぶしが食べたかったらしく、とこぶしを探したがその日は売り切れていた。「じゃあ、蟹にしようか、それとも金目鯛にしようか」と言って、私と父はまるでお正月に食べるような食材をみつくろっていた。母は、ずっと明太子売り場の周りをウロウロしていた。私と父はそんな母を見ながら、「お母さん、明太子だなんて、せっかく東武に来たんだから、もっといいものを買えばいいのにねぇ」と笑い合っていた。

 

 父は魚が好きだった。生まれが神奈川県の湘南だったので、魚ばかり食べているから歯が強いんだ、といつも言っていた。歯と胃腸が丈夫なことと、泳ぎが得意なことが自慢だった。台風が来ているときでも、海の沖までスイスイ泳いでしまう人だった。それを見ている周りの方が、波にのまれると心配して助けを求めて走りまわっているくらいだった。「だいたいね、スーパーで売ってる金目は、ほんとうは赤魚なんだよ。ほら、金目の方がちょっと小さいだろ。うろこの色とかもぜんぜん違うんだ。赤魚は安いからね、味はもっと違うよ」。物知りな父だった。どこからそんな知識を得てきたのか訪ねてしまいたくなるくらい、さまざまなことを知っていた。私たちは金目鯛、ウニ、貝柱、明太子などを買って帰ることにした。とこぶしは、また買う機会があるだろうと思った。

 

[1]医師がひとりの生活者として持っている役割のことで、例えば、父親だったり、ちょっとゆかいな友だちだったりというものである。それらは、医師が歩んできた個人史のなかで培われるすべてのものである。

キーパーソン

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 16:01

 

 1月○日、前々日に弟から電話がかかってきた。「明後日、お父さんとお母さんがT大学付属病院に結果を聞きに行くから、お姉ちゃん、一緒に行ってくれない?」といわれた。食道がんであるということは、タイの病院で知らされていたことであるが、がんといえば肺がんや胃がんはよく聞くけれど、食道のがんがどのくらいたいへんなものなのか、私には知識がなかった。食道なんて単に食べ物が通過するだけの臓器だし、食道がんはあまり聞かないくらいだから、きっとそんなに難しいことはないだろう、くらいに思っていた。いずれにしても、弟の電話の声はいつになく低く重たくて、ましてや、私に何か頼みごとをすることがあまりない弟からの頼みであったから、実家ではいまどんな思いでみないるのだろうか、と少し不安になった。

 

 次の日、しばらく実家に帰るため大学を休むということをK先生に話に言った。K先生の父親もまた、5年前に胃がんに冒され、3年前は大腸がんに冒されていたことを初めて聞かされた。「でもね、がんはどうなるか分からない病気です。私の父も胃も大腸もなくなってもまだピンピンしている。……これからは毎日毎日、選択を迫られるでしょう。がんを治療していくにはキーパーソンが必要です。僕の家は姉[1]がたまたま看護関係の仕事をしていたから、彼女がすべて決定してきた。家族内で意見が割れてくることもたくさんあるからね。ときには、家族が崩壊することだってある。でも、簡単にあきらめないで。一番つらいのは君のお父さんなんだから」と、1時間近く自分の経験を話してくれ、お姉さんが書いたという看護プロセスに関する本を2冊ほどくれた。「何か困ったら、I先生[2]に相談しなさい。あの先生は教師としては僕はダメだと思うけど、人の命に関わることだったら、彼以上に信頼している人はいない」。キーパソンという言葉を初めて聞いた。

 

 その翌日だったと思う。私はI先生に電話をした。T病院に行く前に、娘としての考えだけではなく、冷静な判断がしたかったのだ。I先生は「手術ができるのなら手術の方がいいと思う」と言った。「どうもね、人間ね、悪い物をとったぞ、というので気持ちがずいぶん違うらしい。……君ねぇ、たいへんだと思うがね、これは人間平等におとずれるものなんだ。君の場合はちょっと早いというただそれだけだ。……君ね、娘としてとにかく思いつく限りのすべてのことをやりなさい。こういうときはね、ジタバタした方がいいんだ。手を尽くしなさい」。I先生の話は、なぜかはよく分からないけれども、他人の意見ではないような気がした。もちろん他人なのだけれども、いまの私の状況を深く察知し、入り込みすぎずけれども突き放しすぎない。

 

 知人の誰かが重病に冒されたとき、死を迎えたとき、その痛みを人はどこまで共有し合うことができるのだろうか。私はこれまで分かっているつもりでいても、分かっていなかったと、自分の父が病に伏して初めて強く自覚した。自分が痛んでいるときに人からかけられる言葉は、普段だったらなんてことのない言葉でも、しばしば心に深い傷を残すほどに突き刺さってしまう。所詮は、他人事なのだ。そんな当たり前のことを思い知らされ、私はそれまでにご両親が病に伏された友人にどんな言葉をかけてきたかを、思い出し反省していた。

 

[1]看護大学の教授をしている方で、がん患者のセルフヘルプグループなどもつくっている。

[2]寺の住職をしながら大学に勤務していた先生で、当時はすでに退官し寺の仕事に主に従事していた。私自身はゼミにも参加しており、比較的親しい仲ではあった。

告知

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 15:59

 

 「告知」に実は二段階の告知があることを、私は知らなかった。第一段階は病名の告知。いまや病名の告知はほとんどの医師がおこなっていることが推測される。第二段階は、予後告知である。これにはさまざまな位相があるが、一言でいえば、「あとどのくらい生きられるのか」、という告知である。

死にゆくものをケアするということ

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 15:56

 

 父が死んだ。ゆったりと深呼吸をしているようだった。大きく息を吸い込み、しばらくして大きく息を吐いた。また大きく息を吸い込み、まぶたが閉じていった。そして、その息を吐くことはなかった。目には涙のようなものが浮かんでいた。人が死ぬときには体中の水分が体内から出ていくというが、その水分が目から出たものなのだろうか。あるいは、何らかの感情とともに流れた涙なのだろうか。そうだとすれば、それはどんな感情だったのだろうか。悲しみ、さみしさ、嬉しさ、怒り。それを父に尋ねることはできない。

 

 死にゆくものをケアするということ。「そのケアがいかにあるべきか」、ということを問うときに常につきまとう悩みは、「このケアはどうだった?」とその評価を当事者に尋ねることができないことだ。私たちは想像するしかできない。いま生きている人間の言葉から。家族やケアしていた人たちから。死にゆく人が見せてくれたさまざまな細部から。それゆえ、「ケアがいかにあるべきか」という問い自体がそもそも困難を孕むものなのかもしれない。私たちはむしろ、「ケア」そのものを多角的に問うていく方が、死にゆく人へのケアの本質に近づくことができるのかもしれない。

 

 死にゆく人へのケアについての評価は、その死を受け止めなければならない人びと(家族など)が、その死についてどのように受け止め解釈し語ることができるか、という点に大きく左右されるのではないかと思う。例えば、「あなたは余命3ヶ月です」と突然言われ、残りの3ヶ月を精一杯生きた人たちがいる。そのストーリーはしばしば「生きることの大切さ」というメッセージにすり替えられてメディアに流れる。私たちはそのストーリーを消費する。メッセージがすり替えられていることに気づかずに。「余命3ヶ月」ということを知ることは、「生きることの大切さ」を可能にすることなのだろうか。その人の人生は3ヶ月でケリがつくくらい、簡単なものなのだろうか。その3ヶ月よりもその人が生きていた何年何十年の中に、「生きることの大切さ」はあるのではないか。ましてや、それが死にゆくものへのケアにいい影響を及ぼすかは未知数である。メディアに流れない人たち、すなわち、「余命3ヶ月」を告知されて苦しみ悩み呻きながら死んでいく人たちがいることを忘れてはならない。

 

 私は父に「余命3ヶ月です」と言わなかった。私自身は、自分ががんになったとしたら余命は知りたいと思っていたし、いまもそう思っている。最初は父に言うつもりだった。しかし、私の心の中に何かがひとかけらだけ引っかかっていたのだ。そのひっかかりをとるまでは、結論は出せないと思っていた。随分と――もうこれ以上は考えきれないほど――考えを巡らすうちに、そのひっかかりが何だったのか、分かったのだ。すべてが腑に落ちた。正解なのか間違いなのかは分からない。けれども私には確固たる結論が出た。「父に余命を伝えるのはやめよう」と決めた。

 

 死にゆく人をケアしている最中、当事者も家族も無数の正解のない問いを迫られ、どれかを選択しなければならない。その選択が正しかったか間違ったかという評価は――もちろん、そこに評価がつけられるかどうかは別の問題であるが――、死を受け入れなければならない人たちが「それでも、この人の人生はよかった」「いい死に方をした」と言葉にできるかどうかということではないだろうか。

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