手術後の経過と家族の気持ち(3)

  • 2019.05.05 Sunday
  • 15:44

弟の声 2008/03/15 携帯メール

 

先生たちがそれぞれの場面で分かっている情報を100%伝えてはくれなかったと思う。専門家と素人で、かつ向こうは検査の結果を把握できてるわけだし、原因不明の熱だったり1、いつのまにか転移していたことだったり、そもそも手術を終えた時点で抗がん剤、放射線をやっても無駄だって分かっていたかもしれないとか考えたりすると2、うまく情報を操作されていたのかなって思うし信頼しきって任せていたわけだけど3

 

(1)化学放射線治療中、4月4日あたりから熱が続くようになる。この熱の原因については、医師もなかなか判断ができなかったようで、誤嚥性肺炎で治療しても下がらないことから、腫瘍熱という判断になっていく。原因が分からないことは、父にとっても家族にとっても苦しいことであった。

(2)化学放射線治療中、右副腎に転移があることが発覚したのだが、このとき手術からわずか2ヶ月であった。母から「丸い影」について聞いた直後、私から主治医をつかまえて詳細を教えてもらえるように話し、すぐに別室で画像を見せてもらいながら説明してもらった。このとき、余命が半年ないだろうということを聞き出した。

また、手術時に切除しなかった「残した」箇所があったことを理解することになる。手術後の説明をした医師はすでにこれについて話していたかもしれないが、「残した」という表現を用いなかったため、そういう印象を受けなかったのである。加えて、医師からすれば、それを「残した」のはトータルで治療を考えたときに、残した部分を化学放射線で治療していく方が、侵襲が少ないなどの利点があったから残したということであるが(治療方針としては間違っていないが)、私たちからすれば「手術が無事に終わる」ことや「手術が成功すること」は、「全部とれた」ことであり「治る」ことを意味してしまっていた。つまり、治療方針ではなく、治るか治らないかの二者択一しかなかった。また、治るとは以前と変わらぬ生活が送れるほどに元に戻ることだと考えていた。

(3)専門家が「素人だから分かりやすく」「ショックを受けるだろうだから言葉を選んで」と心がけていることが、裏目にでてしまうこともある。弟が述べているのは、「信頼していた医師に自分たちは信頼されていなかった」と思えてしまう悲しみでもあったと思う。

手術後の経過と家族の気持ち(2)

  • 2019.05.05 Sunday
  • 15:42

 

母の声 2008/03/15 携帯メール

 

さっきの続きだけど、家にいた3ヶ月1は景子を中心にしたチームワークと、最後まで患者の気持ちを考えての接し方、言葉の使い方、1日1日違う容態に力を合わせてアドバイスには耳を傾け、時にはイラつき、色々な事があったけど2、父親の為旦那様の為に後悔しないように頑張った看護は、誇れる真実です3 

 

1)誤嚥性肺炎から退院後、父は自宅で残りの3ヶ月を過ごした。

2)母は3回ほど、「家で看ることはできない」と私に怒りながら、泣きながらぶつけてきた。なぜかと聞くと、「私はもう精一杯やっている」と言ったり「怖い」と言ったりしていた。しかし、B病院の訪問看護と往診が入ってから、母はそのような発言をしなくなっていく。

3)この直後の電話で、母は「ふとしたときとか景子たちと話しているときにはいろいろ思い出すけど、いざ話せと言われるとけっこう浮かばないものだね」と言っている。なお、母や私にとって、悲しみ深い父の死がそれでも誇れる事実として語られる要因のひとつに、ケア期間中に父がさまざまなかたちで家族に「笑い」をもたらしていたことも挙げておきたい。

手術後の経過と家族の気持ち

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:44

 

母の声 2008/03/15 ファクス

 

先生から説明を受けたとき、本人はどういう気持ちでいたのかなと、今更聞けないけど。手術後の回復は早かったし、病院へ行くのがこの時は楽しみだった1。化学治療法で入院した時は、だんだん心理的につらくなってきたのに、先生は、看護婦さんも、心療内科の先生への打診は、私が同じ病気の奥さんに話を聞いてからの行動だったのがおかしい。あの状態を見たら、もっと早く、精神が落ち着く薬をもらいたかったし2。辛い顔をしている本人を見るのはこちらも辛い。研修医の女医の先生が、ベッドの高さで会話してくれたのが嬉しかった3。徐々に転移のことが分かってきた4。やはり治らないのかと思った。同じ病気の奥さんとの情報交換は同じ境遇の者としてすごい励みになった5。転移の告知をするか、しないかの時、言わなくてよかったとつくづく思う。家に帰ってから、3ヶ月は今思うとあっという間に過ぎたと思うが、この長い一日一日がいつまで続くのかと思う時があり6、子どもに励まされる日々でした。一日の看護も、ほっと息の抜ける買い物の時間が待ち遠しかったが、出かけると早く帰らねばと思う7、毎日。

 

1)手術後は、みるみる回復している感じだった。寝たきりで全身にたくさんの管をつけられた状態から、一日ごとに管が一本外れ、起き上がれるようになり、歩けるようになり、食べ物を口にすることができるようになり、と回復をはっきりと実感できるものだった。

(2)母が主治医に頼もうと思った日に、看護師が「あまりにも辛そうだから、先生に出してもらいましょうか」と母に声をかけてきたのである。もちろん、化学放射線治療の前に、父は心療内科の先生の診察を受け、サポートすることが話されていた。

3)研修医の先生が毎日病室に顔を出し、長時間父と対話をしてくれた。父も研修医の先生についてしばしば話題にしており、来るのを楽しみにしていたようであった。

4)転移のことについては、主治医から母に廊下での立ち話でさりげなく「丸い影のようなものがある」と伝えられた。母はこのことについて、その2日後、大きな問題ではないかのような解釈のもと私に話した。このとき母は、「だって立ち話だったもん」と言っていた。立ち話だったのは、おそらく医師のやり方だったのであろう。

5)父と母は入院期間中に、2組のご夫婦(IさんとOさん)と知り合いになる。Oさんは、ご自身の夫が他界後、私の家に父のケアを手伝いに来てくれた。Oさんの夫が抗がん剤治療をすべきかどうかという相談の電話を父にかけてきたこともあり、お互いに励まし合っていた。母とOさんはいまでも一緒に美術館や食事に出かけており、よいつきあいをしているようである。Iさんの夫は再発後、仕事をしながら現在も治療中であるという。

6)自宅での看護は一時も父から目が離せないものだった。目を離したすきに、勝手に歩き出して転んだりすることが気がかりだったからである。すでにオキシコンチンの副作用で意識が朦朧としていた父にとって、独りでトイレに行くことは困難極めるものだった。そのため、基本的には、母か私のどちらかがリビング(父の寝ている和室とつながっている)にいるようにしており、洗濯物や着替えなどのために2階に上がったりするときにも、どちらかが必ず1階にいるようにしていた。ケアする者たちの日常生活がかなり不自由であることに疲弊することがしばしばあった。

7)母にとって、自宅から車で5分のところにあるスーパーに買い物に行くのが、少し息の抜けるときであった。しかし、出かけると家にいる父のことが心配になり、ゆっくり買い物をすることはなかなかできない毎日だった。

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< July 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM