再び病院へ

  • 2019.05.10 Friday
  • 15:34

 

 私がイギリスへの出張に行く前日、母が「お父さん、最近痛がっているから、今日N先生のところに行ってモルヒネ系もらってこようか?」と言う。確かに、私が不在となると叔母が来てくれることがあるとはいえ、母にくる負担を考え、N医師のところへモルヒネ系の薬をもらいに行くことにした。T病院に電話をし、N医師との外来の予約を取り付け、私は急いで病院に向かった。向かいながら、私は少し迷いがあった。父に無断で新しい薬をもらいに行くのは初めてだった。父にモルヒネ系の薬のことを、どうやって説明したらよいのだろうか。父はN医師には信頼をおいている。父とともに病院に行ってN医師に処方してもらうなら、父も納得するだろうが、大丈夫だろうか。かといって、次の外来予約まではまだ3週間近くある。私は明日からイギリスだ。薬をもらいに行くしかない、と判断した。

 

 もらってきた薬はオキシコンチン。錠剤の薬だ。夕食後、「お父さん、これお薬ね、飲んで」とコンチン1錠と水を渡すと、父は何も聞かずに飲んだ。その日は寝るまで腰に手を当てて痛がるしぐさをしなかった。コンチンが効いたのだと思い、これで父の痛みが緩和されるならやっぱりもらってきてよかったのだと思った。

 

 翌朝、私と母が出発までの時間にししまるとふざけていると、私たちの声に気がついて起きたのか、父が「おい」と話しかけてきた。「お父さん、おはよう、行ってくるね」と私が言うと、「じゃあ小遣いをやらなきゃな、お母さん、財布とって」と父は言った。母が父にお財布を渡すと、父はお札の枚数を数えた。私が隣の居間に戻って荷物の確認をしていると、父は「あれ、お母さん、財布どこにやった?」と言う。「お父さん手に持っているじゃない」と母が言うと、「ああそうか」と言いながら私にお小遣いをくれた。このとき、私は違和感を覚えた。オキシコンチンの副作用だ、と直感した。駅までの車の中で、母にそのことを伝えると「そう?気にしすぎよ、寝ぼけていたんじゃない」と母は言う。私の気にしすぎなのだろうかと思いながら、少し不安を抱えて私はイギリスに向かった。

 

 イギリスには10日間滞在予定だった。行くのを取りやめようと悩んだが、その判断をするには時間が足りなかった。迷っているうちに当日になった。「きっと、大丈夫だろう」と思いながらも、「もし、私がいないうちに死ぬなんてことがあったらどうしよう」と考えていた。毎日、日本へ電話した。1日目は「大丈夫よ」という返事だった。ところがその次の日には「どうしよう、お父さん、おかしくなっちゃったみたい」と連絡があった。「えっ?おかしくなったって、どんな風におかしくなったの?」と私が聞くと、「なんかね、ボケちゃったみたい。まぁ、でも何とか大丈夫だから、景子は自分の仕事がんばって」と言う。「私、帰国予定を早めようか?」と言っても「ううん、大丈夫よ」と母は言った。しかし私は気になって仕方がなかった。

 

 3日目、父が気がかりな私は教授にその旨を話し、自分の判断で帰国の予定を早め、6日間の滞在で帰るように切符を手配した。4日目に電話をすると、母は眠っていたようで叔母が電話に出た。「叔母さん、どう?大丈夫?」と聞くと、「なんかね、久男さんボケちゃったみたいなのよ。入院させた方がいいと思うわ。すーちゃんにも入院の準備させるから、心配しないで」と言う。神妙な声だ。「私がいない間に、お父さん死ぬなんてことないよね?」と聞くと「当たり前でしょ、そんなこと。大丈夫だから、大丈夫。とにかくね、明日病院に電話させるから」と叔母が言った。「私、帰国予定早めたから、私が帰るまで待ってて。入院もできたら待っててね。もしかしたら、これでお父さんと家で会うの、最後になるかもしれないから」と私は頼んだ。父の身に何が起こっているのか分からないことが辛かった。ほんとうに母と叔母の言っている通りなのか?ほんとうに入院する必要があるのか?現状が分からないのに考えても埒があかないと思いながらも、頭から消えることはない。

 

 成田に着くと、私は荷物をクロネコヤマトに預けて成田エクスプレスに飛び乗り、家路を急いだ。タクシー、バス、電車、どれが一番家に早く着くか。渋滞に巻き込まれたら後戻りできない。私は電車を選んだ。家路の途中の乗り換え駅で、15分の待ち時間があったために、私は立ち食い蕎麦屋で山菜おろし蕎麦をかけこんだ。お父さんにどんな顔で会おう?お父さんはどうなっているんだろう?不安な気持ちばかりが頭に浮かぶ。家に到着すると「お父さん、ただいま」とできるだけ元気に言った。父は、ピンクのシャツにベージュのチノパンを履いて、少し不機嫌そうに「行くんだったら、もう行くぞ」と言った。「えー、待ってよ、私、シャワー浴びたいよ。15分、待って」と言うと、「早くしろよ」と言って居間のテーブルの上にあったマンガを読むふりをした。父はイギリスに行く前よりもしっかりしているくらいだった。母や叔母が電話で言っていた様子は微塵も感じられない。「たぶん、病院に行くのが嫌なんだろうな」と私は思った。

 

 病院に向かう車の中で、私はイギリスであったことや、最近のニュースなどを父と弟と議論した。父は得意げに「それはこうなんだよ、ああなんだよ」と話してみせた。母は父の隣で「そうなの?」と聞いていた。いつもの父だった。いや、いつも以上の父だった。母が電話したら、手術を担当してくれたT医師が見てくれると言うので、救急の入口で待っていた。

 

 父はソファに横になって待っていると、入院中にお世話になった医師や研修医たちが父のそばに来て声をかけてくれる。「何だよ、ここにいたら忙しくてしょうがねぇな」と父は言いながらも、医師たちが声をかけてくれることが嬉しそうでもあった。私は少し心配していた。予後告知についての情報が、ちゃんと他の医師たちに伝わっているか。この間の呼吸器外科のようにポロっと言ってしまいはしないか。診察室には家族全員で入った。私は医師の方をじっと見つめ、転移のことについて口にしないかずっと口元を見ていた。採血をして、脱水症状ではないことが分かると、T医師は「まぁ、脱水症状なのかと心配したんですけど、大丈夫なんでね」と言うと、父は「たいしたことないのにお前が連絡するからだ」と母に向かって強く言い放った。母は少し下を見ながら「すいません」と口にした。点滴をしてもらい、私たちは家に帰ることにした。病院から車までの150メートルくらいを、父は右手をズボンのポケットに突っ込んで左手をぶらぶらさせながら、15センチくらいの縁石につまづきながらも歩いて行った。父が癌を患う前は、いつも右手をズボンのポケットに突っ込んで、左手で煙草をふかしながら歩いていた。私はその後ろ姿を見ながら、胸が苦しくてたまらなかった。「父は病院に入院したくないんだ」と確信した。

 

 家に着くと、父はすでに意識が朦朧としていた。車の中でかなり我慢をしていたのだろう。車の中で「横になれば」と言っても横になろうとしなかった。父を抱きかかえるようにしてベッドに連れて行ったが、着ていた服も脱げない状態だ。身体が硬直してしまっている。口と鼻から鼻水やら唾液がこぼれ落ちている。私と母は父のベルトをハサミで切り裂き、パジャマのズボンだけを履かせてベッドに横たわらせた。

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