在宅ケア

  • 2019.05.10 Friday
  • 15:38

 

 翌日から私は在宅診療をしている病院を探し始めた。イギリスに行く前に、インターネットなどですでに目星はつけていたが、家で看取ることができるのかという不安が迷いとなり、また、もしかしたら回復してテレビで見るような何万人に一人の奇跡が起こるかもしれないというかすかな期待が混在し、行動に移せないでいた。「本当に父は死んでしまうのか?もしかしたらこの状況を越えれば回復をするのではないだろうか?」目の前に、痩せ衰えていく父を見ながらも、いつも定まりきらない心のまま、それでも在宅ケアの準備を始めなければならなかった。

 

 庭掃除をしている母に在宅ケアのことを相談した。母はあまり気乗りしていないようだった。眉をひそめながら、お願いするならS医院がいいと言う。S医院の先生は前から私と弟と母に話しておかねばいけないことがあると言っていた。じゃあ一度S医院の医師と話しをしてみよう、と私は母にお願いしてその日の夕方にS医院に予約を入れた。

 

 S医院に着き診察室入ると、医師はにこやかに私を迎え、往診をお願いできるかと聞く私の相談に親身になってのってくれた。医師はこう言った。「私も病院に勤務しているときは人が死ぬ時期が分かったけれど、病院から離れて思うことは、人はいつ死ぬか分からないってことなの。余命3ヶ月と言われた人が、一年生きることもあるの」。予想外の発言に違和感を覚えながらも、私は父を家でできる限り看たいということと、その場合、S医院でお世話になることができるかどうか聞いた。私はS医院の医師の「考え」を知りたかったので、予後告知についてどう思うか聞いてみたりした。もしかしたら父がお世話になるかもしれない人だ。どういう考えをもっているのか、信頼できる人なのか、それが知りたかった。S医院の医師の話しは、始終、私の発言に合わせるという感じでおこなわれた。明るい展望すら抱くものでもあった。しかしそれは、何だか違和感を覚えるものでもあったのだ[1]。とりあえず、また後日に相談に来るかもしれないということをお願いして、この日は帰った。

 

 翌日、自宅から車で15分ほどのところにあるS大学付属病院のソーシャルワーカーに相談に行った。この病院がおこなっている在宅診療についてと、父が急に倒れたり何かあったりした場合に受け入れが可能であるか、知りたかったのだ。私の地域には病院はそれほど多くなく、末期癌の患者を受け入れてくれる病院といえば、療養型の病院くらいしかない。ましてや緩和ケア専門の病院などはない。療養型の病院には主に高齢者の方々が入院しているので、そこで適切なケアが受けられるのか心配だった。ソーシャルワーカーの人は丁寧に相談に乗ってくれた。しかし、父がここで在宅診療を受けることはできないことが分かった。来る前からホームページで調べて、私の家がある市は往診・訪問看護の範囲外であることは知っていたが、範囲内に含まれている市よりも距離的には近い。もしからしたら…、と思っていたが、やはり無理だった。救急で運ばれてきた場合には、おそらくS大学付属病院に運ばれるだろうということであったが、その後は、近くの療養型の関連病院に転院される可能性が高いということであった。ソーシャルワーカーの人は、これ以外にも近くの在宅診療をしている病院を紹介してくれたが、どれも私が調べた病院であり、かつ、どれも家から「近い」という距離ではない。私はここの病院の患者でもないのに、時間を割いて相談にのってくれたソーシャルワーカーにお礼を言い、まだ明確な答えが出ない状況に心の置き場が見つからないまま肩家路に着いた。

 

 その翌日、T大学付属病院のN医師とソーシャルワーカーのそれぞれと相談の予約を取っていた。果たして今日で結論が出るのか、何か糸口は見つかるのか、私の心はざわめいていた。ここ数日、父は毎朝熱が出て目覚める。起きてからは、水痰というか、透明なぶくぶくとした唾液のかたまりが吐き気とともに出てくる。食事は、家族がとる時間に合わせて、朝・昼・夜と一緒に食卓を囲むが、食欲は少なめである。一日に1回か2回くらいおかしなことを口にする。夜、一緒にテレビを見ていてニュースを読むアナウンサーを指さしながら「この人は大学を中退したんだよ」と言ったり、朝ご飯だとベッドに呼びに行けば「さっき食べた」と言ったりする。「まだ食べていないでしょ」と確かめるように話すと、はっとした顔をして「僕ちゃん、アルツハイマーになっちゃったみたい」と言う。自分でも何かがおかしいことが分かっているのだ。そのせいか、オキシコンチンを出しても「これ何?」と私たちに問いかけ、「痛み止めだよ」と言っても、そばにあるティッシュの上にのせて飲もうとしないことが何度かあった。こういうとき、私は何と答えたらいいのか分からなかった。父をだましているようで胸が苦しくなった。昨晩、これからどうするか弟と話し合った。母は相変わらず家で看ていくということに消極的であった。弟は私の話を聞いて、いますぐに結論はだせないけれども、正直、家で看取るというところまで想像していなかったという。当たり前だ。私だって想像していなかった。いまだって、本当に父が死んでしまうのか、想像できない。けれども、想像できないという理由で、何も準備しないのは違うと思っていた。父が治るかもしれないという希望はもったまま、でも、万が一に備えておく。明らかに、気持ちと行動が矛盾していた。

 

 T大学付属病院のソーシャルワーカーは、私の話をじっくりと聴いてくれた。私は、家族にもうまく言えない気持ちをつい口にしてしまっていた。私はいまのところ、母が家で看ていくならS医院にお願いしたいというので、S医院の方向で考えていることを話し、混沌とした気持ちを吐き出した後で、ソーシャルワーカーの言葉を借りながらこれからなすべきことを順序立てて整理しなおした。ソーシャルワーカーはK病院にも往診と訪問看護があることを教えてくれた。K病院は、旧自宅に近い総合病院で、そこでは母も弟も入院経験があり、私も何度かお世話になったことのある病院だった。しかし、往診と訪問看護があるなど、聞いたことがなかった。総合病院であることを謳ってはいるが、往診や訪問看護は謳ってはいない。往診や訪問看護を専門的に掲げている病院の方がいいに違いないと思っていた。結局、ソーシャルワーカーの勧めで、K病院と現自宅から歩いて10分程度のA病院が父の受け入れや往診と訪問看護が可能かどうかを確かめてもらい、それからS医院も含めて最終的にどこにお願いするかを決めていこう、という話しになった。

 

 ソーシャルワーカーとの相談の後、N医師とのムンテラをお願いしていた。今日、どうしてもN医師にお願いしなければならないと思っていたことは、月に一度の検診をこの先もしてほしいということと、万が一のときに、T病院にお世話になることも視野に入れておきたい、ということだった。父は、T病院に検診に行って、医師や看護師の前で格好をつけることがひとつの励みになっていると私は感じていた。T病院とのつながりを絶たれることは、父にもう希望はないと宣告するようなものである。だから、どうしても、T病院には細くてもつながっていることが大事だと思っていた。そしてそれは、私にとってもそうだった。万が一があったとき、自宅の近所にある療養病院で父に何をしてやれるのか。まだ見たこともない場所や人に父の最期を看てもらうことはどうしても嫌だったのだ。私はきっと神妙な顔をしていたに違いない。無理なお願いをするのだ。でも、どうしても受け入れてもらわないと困る。N医師が待合室にやって来て、私を診察室に呼んだ。N医師は頼んでおいた診断書など事務書類を処理しながら、さりげなく父のいまの様子を聞き始めた。N医師は人への入り方が非常にうまい人だった。そして、患者の気持ちがなぜこんなによく分かるのかと、私はいつも不思議に思っていた[2]。電話をすれば、どんなときにでも出て、疑問に答えてくれた。

 

 ぶくぶくと出る水痰のようなものは、オキシコンチンの副作用だということがN医師は即座に分かったようだった。N医師は父の様子を丁寧に聞きながら、これからは父を看ている家族が辛くなってくるということを何度も繰り返した。そしてさらりと、「いざとなったらうちに来てもらっても構わないんで、まぁ、保険と思って」と笑いながら言った。もしかしたら、ソーシャルワーカーから聞いていたのかもしれない。私がお願いする前に、私を安心させてくれた。

 

 帰り道、万が一があってもT病院で受け入れてもらえると分かった私は、心の雲がひとつ晴れ、少し身軽になった気持ちで家路に着いた。

 

[1] いま思えば、おそらく末期癌患者の症状に関する生きた言葉による描写がなかったからであろう。現状の父の様子とはかけ離れ過ぎていて、きれいごとのように聞こえたのだ。

[2] 後で知ったことだが、N医師は3年ほど前に母を癌で亡くしていたという。N医師の母も自宅で看取ったということだった。

コメント
コメントする








    

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< April 2020 >>

selected entries

categories

archives

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM