手術

  • 2019.05.03 Friday
  • 15:38

 

 手術の前日[1]に、私たちはT病院付近のホテルに泊まった。朝830には父は手術室に向かう。逗子から叔母も駆けつけてくれた。元看護師だった叔母だ。こういう時は頼りになる。朝、病室に行くと、父はすでに浣腸を済ませ、ゲームボーイをしていた。K医師が来て「翁川さん、おはようございます。随分落ち着いていらっしゃいますね、普通でしたら、落ち着いていられないですよ」と声をかけていった。その後も23人の医師が入れ替わり立ち替わり来て、「翁川さん、今日はがんばりましょうね」「今日は僕も入ることになったので、よろしくお願いしますね」などと声をかけていった。叔母が「落ち着いてるだなんて、久男さん、緊張しちゃって全然ダメじゃない」と言った。その通りだと思った。ゲームボーイをしている父は落ち着いているどころか、不安を紛らわそうとしているようにしか見えなかった。

 

 しばらくすると看護師がやってきて、術前の処置をやり始めたのでバタバタとしだした。手術用の衣服に着替え、手術用の靴下を履いた。「じゃあ、そろそろ行きましょうか」と担当の看護師が言った。「えっ、このまま?」と思わず言ってしまった。よくテレビでやっているように、手術室にはストレッチャーに乗せられて行く」と言って父を誘導する。エレベーター前に着くと、「ご家族はここで」と言われた。エレベーターに乗った父は、右手を挙げて「そんじゃあ」と言った。いってらっしゃい、がんばってね、お父さん、そんな言葉をかけたかと思うが、覚えていない。ただ父の「そんじゃあ」という言葉と、エレベーターの中に立っていた父の姿を見て、10年前、初めてタイに赴任するときに見送りに行った成田での父の姿を思い出した。

 

 リアリティがない。父が手術しているリアリティなどは、まったくなかった。自分の感情がよく分からなくなった。一緒に闘っているというのもまったく違う気がした。闘っているのは父のみだ。ものすごく心配しているのに、父の身の上に起こっている出来事の手触りが分からない。手術中に死ぬことはないと、どこかで安心してしまっていたからかもしれない。

 

 私と母と弟と叔母は交替で食事をとった。手術は67時間以上かかるということだったので、午後45時を過ぎるだろうということだった。その間はデイルームで誰かが待機していなければいけない。手術中に家族に連絡することもあるからだという。昼過ぎに叔父と従兄弟が病院に来てくれた。午後2時くらいに私と弟は、近くの喫茶店に行った。何となく、じっとしていられなかった。私は論文の締切があったので、その作業をしていた。なんとなく、私も一緒に闘うためには私がすべきことと闘うことで、自分の無力さに対する罪悪感を薄めようとしていたのだと思う。

 

 午後3時半頃に、私と弟はデイルームに戻った。替わりに母と叔母が16階のレストランに出かけるという。私は弟に、「ちょっとトイレに行ってくる。まだ呼びに来ないよね。大丈夫だよね」と言ってトイレに向かおうとしたその時、手術が終わったことを看護師が告げに来た。弟はあわてて母と叔母を追いかけた。いつも混んでいてなかなか9階に止まってくれないエレベーターは、母と叔母をエレベーターの前で待たせてくれていた。すぐにみんなで病理解剖室に向かった。向かいながら、私は手術は67時間以上と言われていたのに、少し早く終わったことが何となく気にかかっていた

 

[1]父が他界した一週間後に見つけたのだが、この日(手術の前日)に父は「お願い事項」と題する手紙を書いていた。そこには、「寿々子へ お父さんは、これから手術に行きます。先生の話では術中の死亡率は非常に少なく心配する事は無いと思いますが100%はありません。万が一のときに備えて以下にいくつか私が居なくなった時の対応を記しておきます」で始まり、6項目に分けてこれからの家族のあり方について、父がタイでお世話になった人たちとのつきあい方について、タイでの後始末についてなどが書かれていた。

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