1月29日

  • 2019.05.02 Thursday
  • 07:30

 

 どんなに迷っても悩んでもどれかを選ばねばならない日は確実にやってきた。父が出した結論は、手術をするということだった。とはいっても、まだ父には迷いがあるようだった。なんとなく落ち着かない。待合室で待っている間も、いつもの父ではない感じだった。それなのに、いつも通りにふるまおうとしている父がよく分かってしまうことが辛かった。2時間近く待たされているということもあったろうが、「おせぇな、もう帰ろうか」「何やってんだよ」などと言うところは、せっかちでぐずぐずするのが嫌いな父らしくもあったが、私にはそれが結論を出せないでいる父の声にならない声に聞こえて仕方がなかった。母はそんな父の迷いに気づいていないみたいだった。その鈍感さが母のいいところでもある

 

 もう話もだいぶ尽きた頃に、医師は胸のポケットから長年使い込んできたと思える茶色の皮の手帳を取り出して、「もしね、また疑問が出てきたら、メールでもいいんでね」と言いながら、自分の大学の研究室の連絡先が書かれた名刺を手帳から引っ張り出した。「じゃあ、お父さん」と言って、私は父に受け取ってもらった。

 

 このことは、父にとっても私にとっても重要な出来事であった。名刺を渡すという行為は、通常、仕事や社交上のことである。そこには、少なくとも「これから関わっていきたい、私を信頼してほしい」という意思が多少なりとも含意される行為である。一般的に、医師が患者に名刺を渡すという行為は考えにくい。医師が患者に病院の窓口以外の自分の連絡先を教えてどんなメリットがあろうか。ともすれば患者からの苦情が直接届く可能性すらある。実際、それまでに私は医師から名刺をもらうという経験をしたことがなかった。もしK医師がすべての患者に名刺を渡しているのであれば、それはかなりの演技派であるか医療行為において患者を「患者」ではなく「固有名をそなえた一個人」として考えてくれる人ではないかと密かに考えていた。

 

 その日、私は名古屋に戻った。後ろ髪が引かれながらも、ずっと父といるわけにはいかなかった。ずっと父のそばにいることが、父とできるだけ長くいたいと思うことが、父の死を前提にしているみたいで嫌だった。

手術か放射線か

  • 2019.05.02 Thursday
  • 07:29

 

 K医師とのムンテラが終わった次の日、私と父と母は家の近くに新しくできた大きな温泉施設であるまきばの湯に出かけた。どこかに出かけたかった。なんとなく家でじっとしていられなかったし、手術か放射線かという選択について腰を据えて家族で話し合うことなどできなかった。昔から、そうだった。父が私たちに何かを相談するということは100パーセントなかった。私も父に何かを相談するということはほとんどなかった。自分で考えて、母に少しだけ相談して、それで決まったことを父に手紙で伝えていた。そして父は、私が決めたことに対して反対したことはなかった。大学四年生のときに、「バーバリーのトレンチコートが欲しいって景子が言ってる」と母が父に電話で話したときに、「まだ大学生がバーバリーなんて早い」と言いわれ、購入することを反対されたことは覚えている。でも、それ以外では覚えていない。私が大学院の博士後期課程に行くと決めたときにも、タイの父の部屋のテーブルにそのことを記した手紙と深い茶色と薄い茶色のマーブル模様にゴールドの縁取りがされたバーバリーのタイピンを置いていった。中学生のときに怒られたときにも、夜中に居間のテーブルに「お父さんへ」と書いた手紙を残して眠った。照れくさくて、面と向かって大事なことを話すということができない家族だった。でも、お互いの不器用な性格を知っていたので、いつもお互いの背中を見つめて愛情を確かめ合っていたような気がする。

 

 まきばの湯に着いたら、父が私の名前でメンバーズカードを作ってくれた。私はそれを見ながら、私の名前で作ったのは「父がもう二度とここに来ない」という意味ではなくて、また元気になったらタイに戻るから私の名前で作ってくれたのだと解釈しようとした。不吉なことは考えたくなかった。温泉からあがると小腹がすいたのでレストランに向かった。「お父さんいかそーめんがあるよ」と私は言って、父が食べたいだろうものを私たちは選んだ。父は父で、「食べたいものを頼みなさい」と言った。すでに父は食べ物がうまく飲み込めなくなっていた。苦しそうな顔は決してしなかったが、飲み込むときは苦しそうだった。父は「苦しい」ということはこれまでにもこの後にも、一度も言わなかった

 

 手術か放射線か。K医師にどちらかを伝える日は129日。あと1週間もない。父はパソコンを開いてトランプゲームをやりながら、ときおり、食道がんに関する情報をインターネットで閲覧しているようだった。母が「お父さん、どうするの」と聞いても、視線を合わせないで「うん」と答えるだけだった。これもいつもの風景だ。何を相談しても、父は視線を合わせないで「うん」と言う。何を考えているのか、どんな気持ちでいるのか、家族に話したことはほとんどない。父の気持ちをさらけ出してくれた方がどれほど楽なのに、とこれほど思ったことはない。

 

 次の日、私が購入した3枚の絵が届いた。新居に絵が欲しいという母の願いだった。2枚は濃淡のあるピンクと白で描かれた繊細な花の絵。リビングの白い壁に2枚並べると素敵だろうと思って買ったものだ。もう一枚はひまわりの絵。ひまわり好きの父と母と私。玄関に飾りたかった。どれも高いものではない。なんとなく家に色彩が欲しかったのだ。私と父はさっそく包みから絵を取り出して、絵を飾り始めた。細かい作業の得意な父である。ピンク色の2枚の絵がバランスよく飾れるようにメジャーで長さを測り、私が椅子の上に乗って飾った。「お父さん、ちょっと右がずれていない?」「いや左の方が少し下がってるよ」と、私は父と過ごす時間はもしかしたら数えるほどしかないのかもしれないという気持ちを否定しながらも、父との時間の手触りを確かめるように言葉を発していたように思う。

 

 夕食後に父が食べやすいように薄く切った真っ赤ないちごを母が出してくれた。それを一切れ口にした父は、むせ込んだ。むせ込んだ、というよりも、いちごが食道につまって息が苦しいようだった。私たちは驚いて、父の背中を必死にさすった。さすってもさすっても、一向に楽になりそうにもない。「救急車呼ぶ?」と母が眉間にしわを寄せながら言ったが、父は「ゼィゼィ」という息にも言葉にもならない声をあげながら、テーブルの上に置いた手をあげて横に振った。30分以上、そんな状態が続き、やっと呼吸が穏やかになり始めた。その間、私には背中をさすることしかできなかった。5ミリにも満たないいちごの切れ端すら、飲み込めないという事実を目の前につきつけられ、いまの父の状態がどれほど深刻なものなのかを垣間見た気がした。「ちくしょう、俺、これさえなければ他は元気なのになぁ」と、父は自分ののどぼとけ辺りを触りながら言った。「うん、そうだよね、それさえなければ、お父さん元気なのにねぇ」と私は言った。父の痛みを代わってあげることはできない。

T大学付属病院でのムンテラ

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 16:04

 

 T大学付属病院(以下、T病院)では13:00からの予約を取っていた。私は12:30くらいに病院の入り口の総合受付に着くと、そこにはいつも仕事に行くときに着ていたベージュのトレンチコートを着た父といつも父の後ろをくっついているばかりの母がいた。「お父さんが、景子が昼ご飯食べる時間ないだろうからって買ってきたの」と言って、母はサンドウィッチの入ったコンビニ袋を私に渡した。不器用な父である。おそらく名古屋から駆けつける私のことを思って自分で買ったものなのに、その手で私に渡してくれないのだ。いつもそうだった。私や弟への愛情を言葉で表現することなんて一度もしたことのない人だ。何か言いたいことがあったり、渡したいものがあるときには、母をその運び人とした。そういう愛情の示し方が、私たち家族のやり方だった。

 

 名古屋から東京に向かう新幹線の中で、私は医師に聞くことをまとめていた。食道がんの治療法やどういう病院を選ぶべきかというポイントは、事前に調べておいた。たぶん誰でも大切な人が重病に冒されたときには、一番いい病院で一番いい治療をさせたいと願うだろう。けれどもこの「一番いい病院」の定義が難しい。有名になっている病院や医師が「一番いい」とは限らない。もちろん、有名な病院では満足いく程度の治療システムは確立している可能性が高い。けれども、それが当事者にとって「一番いい」のかどうかは、結局は、当事者と病院とそのスタッフたちとの関係性に拠るものだと思っている。

 

 事前に調べたところでは、T病院の食道外科のホームページは構築中で、そこから何かの情報を得ることはできなかった。だから、一般雑誌やT病院の他の科を参考にしつつ、T病院の信頼性について考えていた。要するに、セカンド・オピニオンをする必要性があるかどうか、ということを判断したかったのだ。食道がんの治療法は、集学的治療といって「手術」「放射線」「化学療法(抗がん剤)」の3つをうまく組み合わせながら治療していく必要があるという。ただ、食道がんの手術は喉元と胃と肺を開腹する大手術であり、10年くらい前には手術してもその予後で亡くなられる方も多かった。それゆえに、手術をしないで抗がん剤と放射線だけで治療することを謳う病院もいくつかあった。

 

 私は医師にどうやって話しをしようかと、さまざまなパターンをイメージしながら考えていた。おそらく、医師に限らず専門家や研究者はインターネットや一般雑誌で得た情報を鵜呑みにして、それらをひけらかすタイプの人間には手を焼くだろうと予想していた。そんな話を何かで聞いたこともあった。それに、私自身も研究者の世界に片足をつっこんでいる人間なので、何かを専門的に研究することはそんなにたやすいことではないことはよく分かっていたし、だからこそ、ときには嘘や些細なことを大げさに報道するメディアの情報は常に疑心暗鬼のまなざしで見ていた。私が医師との初面会でとにかくこれだけは気をつけようと思ったことは、医師にその役割をまっとうしてもらう、ということだった。それに加え、医師にとって父が単なる患者やサンプルのひとつではないような関係性を築くことだった。もちろん、患者を単なるサンプルとして考えている医師などは、ドラマやマンガで描かれる医師を除いてそう多くはいないだろうと考えている。ただ娘として、父が関わる医師には「この患者を私が治療してあげたい」という気持ちをどうにかして起こしてほしかったのだ。そのためには、医師が医師という役割とそれ以外に彼が持っている役割[1]との間のゆらぎの中に入り込む必要があると考えていた

 

 2階の外科外来の待合室にいると、私たちのように、親子そろって来ている人たちがいた。すでに一度検査に来ていた父は、すらっとした感じで背筋がピンと張った白髪の先生を見かけると、「あの人がK先生だよ」と言いながらぐるりを観察していた。私たちよりも早く呼ばれたある一組の家族が診察室から出てくると、みな赤い目をして下をうつむきながら側を通り過ぎていった。それから5分ほど待つと「○番室に入ってください」というアナウンスが流れた。

 

 診察室に入ると、さっき見かけた白髪の医師が太く穏やかな声で「どうも、こんにちは」と言った。「今日は娘も名古屋から来て…」と母が言うと、目をちょっと大きくして私を見た。父は医師の後ろにあったベッドに腰掛け、母はその隣の椅子に、私は医師の机の脇の椅子に腰掛けた。それから私は、バックからいつも持ち歩いているメモ帳とペンを取り出した。

 

 医師との話は2時間近くに及んだ。一番驚いたのは、こんなに長く話してくれるものなのか、ということだった。K医師は決して自分から話を終えようとしなかった。「他に何か聞きたいことはありませんか」と何度も言った。

 

 その後、私たちは16階の展望レストランに行ってお茶をした。一気に緊張がほぐれた。「お父さん、やっぱり手術でいいと思う」私は言った。「うん、なんか、あの先生、すごい自信があるみたいだったな。自信がないとあんな風にはいえないよなぁ」と父が言った。お茶を終えて1階まで降りるエレベーターで、偶然、K医師と乗り合わせた。K医師は書類に目を通しながら、「じゃあまた、何かあれば」と言って6階で降りていった。

 

 帰り道、私たちは父が勤める会社に立ち寄るのに同行した。途中、父が手土産を持って行くと言うので、門前仲町あたりで洋菓子の詰め合わせを3つ購入した。父はそれを持って、会社にしばらく休むということを伝えに行くのだろう。池袋駅に着くと、父が「東武に寄っていこう」と言うので、東武デパートの地下食品街に寄った。父はとこぶしが食べたかったらしく、とこぶしを探したがその日は売り切れていた。「じゃあ、蟹にしようか、それとも金目鯛にしようか」と言って、私と父はまるでお正月に食べるような食材をみつくろっていた。母は、ずっと明太子売り場の周りをウロウロしていた。私と父はそんな母を見ながら、「お母さん、明太子だなんて、せっかく東武に来たんだから、もっといいものを買えばいいのにねぇ」と笑い合っていた。

 

 父は魚が好きだった。生まれが神奈川県の湘南だったので、魚ばかり食べているから歯が強いんだ、といつも言っていた。歯と胃腸が丈夫なことと、泳ぎが得意なことが自慢だった。台風が来ているときでも、海の沖までスイスイ泳いでしまう人だった。それを見ている周りの方が、波にのまれると心配して助けを求めて走りまわっているくらいだった。「だいたいね、スーパーで売ってる金目は、ほんとうは赤魚なんだよ。ほら、金目の方がちょっと小さいだろ。うろこの色とかもぜんぜん違うんだ。赤魚は安いからね、味はもっと違うよ」。物知りな父だった。どこからそんな知識を得てきたのか訪ねてしまいたくなるくらい、さまざまなことを知っていた。私たちは金目鯛、ウニ、貝柱、明太子などを買って帰ることにした。とこぶしは、また買う機会があるだろうと思った。

 

[1]医師がひとりの生活者として持っている役割のことで、例えば、父親だったり、ちょっとゆかいな友だちだったりというものである。それらは、医師が歩んできた個人史のなかで培われるすべてのものである。

キーパーソン

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 16:01

 

 1月○日、前々日に弟から電話がかかってきた。「明後日、お父さんとお母さんがT大学付属病院に結果を聞きに行くから、お姉ちゃん、一緒に行ってくれない?」といわれた。食道がんであるということは、タイの病院で知らされていたことであるが、がんといえば肺がんや胃がんはよく聞くけれど、食道のがんがどのくらいたいへんなものなのか、私には知識がなかった。食道なんて単に食べ物が通過するだけの臓器だし、食道がんはあまり聞かないくらいだから、きっとそんなに難しいことはないだろう、くらいに思っていた。いずれにしても、弟の電話の声はいつになく低く重たくて、ましてや、私に何か頼みごとをすることがあまりない弟からの頼みであったから、実家ではいまどんな思いでみないるのだろうか、と少し不安になった。

 

 次の日、しばらく実家に帰るため大学を休むということをK先生に話に言った。K先生の父親もまた、5年前に胃がんに冒され、3年前は大腸がんに冒されていたことを初めて聞かされた。「でもね、がんはどうなるか分からない病気です。私の父も胃も大腸もなくなってもまだピンピンしている。……これからは毎日毎日、選択を迫られるでしょう。がんを治療していくにはキーパーソンが必要です。僕の家は姉[1]がたまたま看護関係の仕事をしていたから、彼女がすべて決定してきた。家族内で意見が割れてくることもたくさんあるからね。ときには、家族が崩壊することだってある。でも、簡単にあきらめないで。一番つらいのは君のお父さんなんだから」と、1時間近く自分の経験を話してくれ、お姉さんが書いたという看護プロセスに関する本を2冊ほどくれた。「何か困ったら、I先生[2]に相談しなさい。あの先生は教師としては僕はダメだと思うけど、人の命に関わることだったら、彼以上に信頼している人はいない」。キーパソンという言葉を初めて聞いた。

 

 その翌日だったと思う。私はI先生に電話をした。T病院に行く前に、娘としての考えだけではなく、冷静な判断がしたかったのだ。I先生は「手術ができるのなら手術の方がいいと思う」と言った。「どうもね、人間ね、悪い物をとったぞ、というので気持ちがずいぶん違うらしい。……君ねぇ、たいへんだと思うがね、これは人間平等におとずれるものなんだ。君の場合はちょっと早いというただそれだけだ。……君ね、娘としてとにかく思いつく限りのすべてのことをやりなさい。こういうときはね、ジタバタした方がいいんだ。手を尽くしなさい」。I先生の話は、なぜかはよく分からないけれども、他人の意見ではないような気がした。もちろん他人なのだけれども、いまの私の状況を深く察知し、入り込みすぎずけれども突き放しすぎない。

 

 知人の誰かが重病に冒されたとき、死を迎えたとき、その痛みを人はどこまで共有し合うことができるのだろうか。私はこれまで分かっているつもりでいても、分かっていなかったと、自分の父が病に伏して初めて強く自覚した。自分が痛んでいるときに人からかけられる言葉は、普段だったらなんてことのない言葉でも、しばしば心に深い傷を残すほどに突き刺さってしまう。所詮は、他人事なのだ。そんな当たり前のことを思い知らされ、私はそれまでにご両親が病に伏された友人にどんな言葉をかけてきたかを、思い出し反省していた。

 

[1]看護大学の教授をしている方で、がん患者のセルフヘルプグループなどもつくっている。

[2]寺の住職をしながら大学に勤務していた先生で、当時はすでに退官し寺の仕事に主に従事していた。私自身はゼミにも参加しており、比較的親しい仲ではあった。

告知

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 15:59

 

 「告知」に実は二段階の告知があることを、私は知らなかった。第一段階は病名の告知。いまや病名の告知はほとんどの医師がおこなっていることが推測される。第二段階は、予後告知である。これにはさまざまな位相があるが、一言でいえば、「あとどのくらい生きられるのか」、という告知である。

死にゆくものをケアするということ

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 15:56

 

 父が死んだ。ゆったりと深呼吸をしているようだった。大きく息を吸い込み、しばらくして大きく息を吐いた。また大きく息を吸い込み、まぶたが閉じていった。そして、その息を吐くことはなかった。目には涙のようなものが浮かんでいた。人が死ぬときには体中の水分が体内から出ていくというが、その水分が目から出たものなのだろうか。あるいは、何らかの感情とともに流れた涙なのだろうか。そうだとすれば、それはどんな感情だったのだろうか。悲しみ、さみしさ、嬉しさ、怒り。それを父に尋ねることはできない。

 

 死にゆくものをケアするということ。「そのケアがいかにあるべきか」、ということを問うときに常につきまとう悩みは、「このケアはどうだった?」とその評価を当事者に尋ねることができないことだ。私たちは想像するしかできない。いま生きている人間の言葉から。家族やケアしていた人たちから。死にゆく人が見せてくれたさまざまな細部から。それゆえ、「ケアがいかにあるべきか」という問い自体がそもそも困難を孕むものなのかもしれない。私たちはむしろ、「ケア」そのものを多角的に問うていく方が、死にゆく人へのケアの本質に近づくことができるのかもしれない。

 

 死にゆく人へのケアについての評価は、その死を受け止めなければならない人びと(家族など)が、その死についてどのように受け止め解釈し語ることができるか、という点に大きく左右されるのではないかと思う。例えば、「あなたは余命3ヶ月です」と突然言われ、残りの3ヶ月を精一杯生きた人たちがいる。そのストーリーはしばしば「生きることの大切さ」というメッセージにすり替えられてメディアに流れる。私たちはそのストーリーを消費する。メッセージがすり替えられていることに気づかずに。「余命3ヶ月」ということを知ることは、「生きることの大切さ」を可能にすることなのだろうか。その人の人生は3ヶ月でケリがつくくらい、簡単なものなのだろうか。その3ヶ月よりもその人が生きていた何年何十年の中に、「生きることの大切さ」はあるのではないか。ましてや、それが死にゆくものへのケアにいい影響を及ぼすかは未知数である。メディアに流れない人たち、すなわち、「余命3ヶ月」を告知されて苦しみ悩み呻きながら死んでいく人たちがいることを忘れてはならない。

 

 私は父に「余命3ヶ月です」と言わなかった。私自身は、自分ががんになったとしたら余命は知りたいと思っていたし、いまもそう思っている。最初は父に言うつもりだった。しかし、私の心の中に何かがひとかけらだけ引っかかっていたのだ。そのひっかかりをとるまでは、結論は出せないと思っていた。随分と――もうこれ以上は考えきれないほど――考えを巡らすうちに、そのひっかかりが何だったのか、分かったのだ。すべてが腑に落ちた。正解なのか間違いなのかは分からない。けれども私には確固たる結論が出た。「父に余命を伝えるのはやめよう」と決めた。

 

 死にゆく人をケアしている最中、当事者も家族も無数の正解のない問いを迫られ、どれかを選択しなければならない。その選択が正しかったか間違ったかという評価は――もちろん、そこに評価がつけられるかどうかは別の問題であるが――、死を受け入れなければならない人たちが「それでも、この人の人生はよかった」「いい死に方をした」と言葉にできるかどうかということではないだろうか。

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